見出し画像

モノより思い出よりモノより思いへ

「モノより思い出」確か日産セレナのキャッチコピーがこんなだったと鮮明に覚えている。幼い頃から街ゆくクルマがとても好きだった自分にとって経済の発展は国産車の豪華さと正式に比例した。バブル絶頂の華の1989年日産GT-R32,初代ユーノスロードスター、ホンダNSX、レクサスセルシオなどが軒並み発売され、街を賑わせたのは今でも脳裏に焼きついている。外国のクルマはメルセデスが幅を利かせていて車体の番号はそのまま排気量を現した。SEL560ならSクラスの5600ccだし、SL500つったらSLクラス当然に5000cc、オープンカーの最高峰。カーグラTVで演ってて、衝撃時はにアブソーバーが突き出てて頭部を保護すんのな。次世代の、SEL600なんて確か二重窓仕様で防弾仕様もあって後部座席が曙でもゆったりできるくらい広い、はず。あんなクジラみたいなクルマもう2度と出会えないだろうし、もしもお金持ちになったら是非欲しい。
「最善か無か」
ゴットリーブダイムラーとカール.ベンツの2人で創業されたベンツ社は、立派な企業理念があって、最高水準のクルマをつくるためには、決して安易な妥協はしないという意味なのだそうだ。
グッとこないか?
ただ私感としては最近20年くらいのベンツからはその気概が失われた気がしていて、自分が保有する3台のベンツはいづれも最善の頃の一台だ。全部ボロいけど。
なんなら二台は動かねーけど。
修繕する予定すらねーけど。

僕の会社が昔のベンツのようであれば尚良いなと思う。

翻って今の日本車は日本車はどうなんやろか?
日本の大衆車のはじまりはスバル360
トヨタならカローラ
日産ならサニー
以前は4年でフルモデルチェンジしていたと言う。
見慣れた2年後にマイナーチェンジ。
さらに2年後にフルモデルチェンジ。
今でこそフルモデルチェンジは6〜8年になったというけれど、それは、ハード面の投資コストと開発時間だとの事。それでも依然として欧州車より短期で見慣れた姿は消えてしまう様子。
いずれも今の日本車に作り込んだ感じは薄く、はりぼての工業製品というニュアンスは拭え得ない。
大量生産大量消費。
「神は細部に宿る」
と誰かが言っていたけど、プレスで型押しされた細部に神様なんて宿るはずもなく3年後の車検、なるだけ高い値付けで売られてゆくだけ。
自分は減価償却を目当てに一定期間で次々と高級車を乗り換えるお金持ちが苦手でね。

昔のボロボロのサニーバンをコレでもか!とテラテラに磨き込んで親父の形見でも扱うように丁寧に乗り倒す汚いジジイが好きだ。
トイレとバーカウンターの光沢だけがやけに綺麗で紫炎けぶるかれこれ営業して50年くらいになりそうな路地裏のバーが好きだ。
ストレートのトリス一杯だけでチマチマ何時間も粘る、前歯がシダ植物みたいな生え方のジジィを片目で見やりながら飲むラフロイグが、好きだ。カウンターの端では石でも売り歩いていそうな寡黙な虚空の初老がちんまり飲んでいれば尚、良い。
そんな人のグラスのふちに神様は宿るのではないかな?
んなわけないか。
昔の世界中のクルマにはそんな趣がそれとなく感じ、国々の威厳や誇りを感じる事ができるようにおもう。

「お金持ちになるには少しの努力が必要だけれど、お金持ちであり続ける事に努力は要らない。人口衛星に燃料が要らないのと同じでね」
これは高校の時に読んだ村上春樹が書いた何かのどこかの一節で、当時「んなアホな」と思っていた。
けれどいまは(そうなんや)程度には思う。
飽くまで「そうなんや」程度の事。

駅伝で次の走者にタスキを託した程度のこと。
スーパーマリオで1-1をクリアした程度のこと。
ラジオ体操はまだ第一、プロポーズはまだ98回目。
もしもみんなが考えるお金持ちが、大きな会社に勤める事ならば、
その会社で定年まで勤めてあげた時の全部の収入を調べたらよい。
ちなみに人気のキー◯エンスで7億円と少し。

三◯商事で6億半ば。ト◯タなら5.5億円。とか。
これがお金持ちならよかった。
途中なんのお咎めも心の揺らぎもなく、誰からの誘いも心の迷いもなければそれが良い。”

みたいな事を新卒採用の説明会の時、当時ゴリゴリのクソベンチャーの人事担当として、自分はマイクを持って話をした事、覚えてる。
改めてテキストに起こすと壮大な嘘なようだけど言い得て妙だと自分でも思う。こんな事大手企業以外のどの会社でも当てはまる事だし、どこも間違えていないのだし。

もしも、大きな決断をして会社を自ら創るような事があれば資金はできる限り自己資金でするべきだと思う。やむべからずで身内や兄弟、ごく近い親族から応援と支援をお願いして、この先資金だけでなく公私共にお世話になった人、なりたい人にメールや電話でなく、会って、話をしてお願いに当たるべきだとも考える。おそらく早い段階で資本金を食いつぶす形になると思う、というかなれ。ケチも堂に入るとたいしたもので、消しゴムのカスすらもったくなり、手で払う前に少し躊躇う、アメニティで頼んだ安いボールペンを奥さんがメモ書き用に少し使うと烈火のごとく怒り狂って「会社の備品やぞ💢何個人使用してんねん!」とカジュアルにキレる。軽自動車のたった550ccのHONDAtodayにおっさん5人乗って移動する。近所の中古車屋さんの旗をパクって老人ホーム用に転用。同くA型看板をパクって老人ホーム用に塗装転用。老人ホームの外観を自分たちで清掃。あわただしい数のアロエとドクダミを素手で捕獲、破棄。

始まりの一面にはこんなところもあった。
起業や創業というとなにかカッコ良いイメージがあるのかもしれないけれど、少なくとも我が社に関する限りこんな感じ。僕の記憶が緩やかにボケていたとしてもそこまで多くは乖離していないと思う。
素早く他から資金を調達して何か早道を通りたい気持ちが僕には理解できない。
貧困を一度でも経験して、お腹を目一杯空かせて、安い酒を月に一度だけ飲んで。
身分不相応にもいきなり新卒採用に挑んで、いきなりなもんで大嘘を大風呂敷で包んで、採用した人たちが大嘘をまことに変えてしまうようなこの始末。

2人きりの時分は、大森駅までの徒歩での道のりで、自動販売機の釣り銭を漁って10円見つかると2人で飛び上がって喜んでみたり。
西新宿の住友不動産まで赴いて投函のアルバイトの面接に駆けつけて以後音信不通になってみたり。空気を吸って腹を満たしてみたり、水だけ飲んで喉を潤すような仕草の中で霞だけ食べて生きていた。
ぼんやり空を眺めて、雲を睨んでは「何をしてるんやろか」ととめどなく石川啄木の「一握の砂」の一説を思い浮かべたり中原中也の詩を思い出したりもした。
嘘、してない。

そんなある時、環八の道端に停まるベンツ、ゲレンデワーゲンを見かけて、こっそり、その重厚な一片に触れてみた。
みるからに重そうなフロントドア。
その存在感。
中学校の近くの歯科に停められていたG230がゲレンデワーゲンを見た初めての経験でいつかお金持ちになったら手に入れたいと思っていたクルマそのものだったので一抹の満足度はあったものの、いざ目の前にするとその存在感たるや。
自分の最初で最後の物欲と呼べるものに違いない。
「最善か無か」
そしていま物欲から完全に解放されている。金銭欲と言っても良い。

モノより思い出よりモノより思いへ」
いま嫌いな言葉で自分はどうやらエンゼル投資家と言われているらしいけど。
いま若い起業者に必要なのはお金ではなくてたぎるような思いではないかと。
四角い、高価なら燃費の極めて悪い、後部座席の狭いらベンツから学んだ投資家の戯言。
この仮説はどうだろ?