見出し画像

合わせ鏡

合わせ鏡
幼い頃から不思議な遊びとして「合わせ鏡」というのがどうやら好きなところがあって。
幼稚園の頃。
園から帰って兄2人が不在で母もいない。近所の北村大豪も習い事かなんかで遊んでもくれない。
北村大豪とは幼稚園からの付き合いで40年以上の幼馴染で実家から50m以内の所にすむ、ともに育ったほぼ兄弟みたいなやつ。地区の運動会では2人抜け出して遊び惚けては迷惑ばかりかけてた猿みたいな仲間だった。


ひとり暇で仕方ないとき、居間で三面鏡の正面の自分に顔を合わせて目を合わせ、左右の鏡を寄せて集めて集合し、三者で集まって沈黙してみんな(てゆうか1人で)黙ったまんま、一二分いや長ければ四五分経つと
「あれ?」
とちいさく声をだしてようやく沈黙がはじかれる。
そうやって一連の答え合わせが終わたらこころが落ち着きませんか?
みたいなことを尋ねた事が何度もあって。

その解答がまともにあったのが今まで2人しかおりませんで。
1人は瀬筒というド天然の男性。
も1人もド天然の女性なので特になんの参考にもならない。

ああ、じぶんはじぶん?
俺がおれでよかった。
そーかおれがおれなんだ!
今どこだ?


そしてそれは、
いま思えば自己同一性?
アイデンティティ?
というものの走りみたいなものなのかな?
このふしぎな感覚と経験はその後も何度も経験していてなにかのメタファーなのかもしれいな?とは思ってはいる。

大豪と抜け出して駆け抜けたドブ川や、こしらえた砂団子、飛び込んだ安威川の川底から聞こえた川の音なんかはいつも掻き立てる冒険心などと一緒にいまも色濃く覚えている。

小学二年の時、担任の森裕子先生は独特の先生で同じ町内の登校拒否の一学年下の男児を毎朝僕に迎かせそれに成功すると必ず僕の頭をグリグリ撫ぜるなどした。
ある冬、珍しく雪が降り積もる朝喜び勇んで同学年の担当をも口説き落としたのだろう、おそらくは校長もそのはず、屋上を解錠して二限三限を解放して雪合戦させるなどした。
当然に児童たちは喜んで雪だるまをこさえたりもしていた。
記憶が確かならその数は2回。この原稿を書く前に確認したので間違いないはずなのだがほんとのところ、ご本人は覚えておらず確証はもてない。
そして僕は、まことの教育とはこういう事だと心底思う。

教えて育てる前に、遊ばせ共に遊ぶ愉快が先決だろうよ。
児童の雪遊びに眼を細める教諭に、合わせ鏡の向こうを眺めてようとする聖母の眼を見たような気がした。

いつか兄の友達に小学校の教員になるのが夢だという人がいた
「小学生に教えるのはさぞかし大変ですね?」と伝えると彼は
「教えるのではなく育てるのが小学校の教員の使命です」もおっしゃった。
その時、彼の言葉の意味は良く理解できなかったけど、今なら少しわかるかも知れない。
公園でボール遊びが禁止になるケースがあるという。その理由はうるさいからだという。
危ないからだと、近隣に迷惑がかかるからだと、
怪我したらどうすんだと。
知るか。

子供なんて大声で騒いでご近所に迷惑かけてなんぼだし腹が減ったらご近所にお菓子をもらったり喉が渇けばお茶くらい分けてもらってなんぼだぞ。

こうやって時間をかけて感性を失い、年をとるたびにヒトは退化してゆくのと違うかな。かつて当たり前に持っていて、全身から解き放っていたひかりがいつのまにか
定期券と厳密なダイヤと定期的に振り込まれる賃金に絡め取られて面白ろみを欠いた地方の深夜放送みたいになってる。
地方の深夜放送てなんや。

また、小学校4年生から卒業までの三年間は豊田江美子先生てのにお世話になった。
この先生との思い出話は多すぎるのだけれど、先生の前では何度も泣いた。ある時は友達を思って、ある時は自分が情けなくて、さよならが辛くて、ほんで
海援隊の「贈る言葉」には三番がある。
「これから始まる暮らしのなかで誰かがあなたを愛するでしょう。だけど私ほどあなたの事を深く愛した奴はいない」このフレーズこの歌詞を35年以上経った今も忘れていない事に意味はない。ない事はないけどよくわからない。
自分は幼い頃からヤケに涙脆い一面もあって母から「南極物語」のあらすじを聞いただけで号泣したのを今でも明確に覚えている。でも南極物語本作は未だ観ていない。

中学は3年間同じ担任。
秋山先生といって、自分で言うのもなんだけど自分を溺愛していたのだと思う。2年の三学期が終わった頃二階の踊り場で
「あんた逃がさへんで」と言われ、3年の学級編成を覚悟した。
我が校は曲がりなりにも真面目な生徒が多いとは言えず生徒の学ランからセブンスターが覗いてるとソレはニコチンの値が強すぎるのでせめてマイルドセブンにしなさいと嗜められた。教室の後方で冬場焚き火を始めるとせめて中庭のテニスコートでしなさいと、窓を開けて雪合戦をすると校庭でなさいと叱られた。
今思えばすこぶるリベラルな公立校で思い出してもマジか?と思う。
大抵の非行?には大抵の先生は笑ってくれていたような気がするし
すくなくても担任の秋山先生は暖かい目で見てくれていた。
自分は
割と優等な部類だったけれどいわゆるヤンキーと言われるひとたちとも仲良くやっていたしソレなりのわるさもしていたようにおもう。
朝の10分を彼らのために算数の勉強の時間に充ててさえいた。
友達ヤンキーのホンダただし(たわし)は本気で2人で吉本興業に行こうと誘ってくれていて担任と親は死ぬ気で留めていた。
彼はヤンキーにありがちだと自分は考えているのだけど涙脆くて割とすぐに泣く。

卒業目前にそんな彼を見るのが嫌だったので卒儀式の前日西日の指す教室でしんみりした空気のなか、数人の仲間で集まって話すともなく黙った空気のなか
「たわしさ?明日なんとなく式終わったらこの教室集まるやん?空気重いやん?どーせ。だからって絶対教卓にうんこ置いておくなよ?」
「ぜったいやぞ」たわし「!!!」
オレ「あかんぞ!」
た「ー!!!」
「あかんって」
た「ソレはない」
オレ「ソレはあかんわ」
あほたち「あかんな」

翌日。
秋山せんせ
「教卓にうんこ置いたのだれ?」
一同「。。。。。」
た「え?」
一同「たわし。あかんやろ、コレだけわ」
た「ええええてて」

少年時代というにはあまりに稚拙で不勉強な成り行きだけど精一杯あそんだし、ソレなりの思い出を紡いだようにおもいます。

深く考えたらそれぞれ各々の合わせ鏡を持ち合わせてい、それぞれのより方で持ち寄ってこたえ合わせができれば学歴や性別お金の多寡なんていっこもかんけーのない鏡の向こう側が見えやしないかな。

自分はもう30年以上も合わせ鏡して遊んでないのだけれど。