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こさえたかもしれない会社がやね。

「きっとこの世界の共通言語は言葉じゃなくて笑顔だと思う」みたいなカッコツケツケの歌の歌詞があったように想う。

また「志村けんのだいじょうぶだぁ」の放映時、テレビ局には視聴者から多くの便りが届いた。その中に、志村さんが「ホロッとした」手紙があった
父を失った娘が、母とアパートで生活していた。母はパートに出て、娘もアルバイトの日々。ただ、月曜日だけは2人とも午後6時に家に帰った。8時からの番組を見るためだ。母娘で笑い合い、「また1週間頑張ろうね」と声を掛け合った
人間と動物の違いの一つは「笑う」こと。志村さんは「笑いには、人間を強くする不思議な力がある。お笑いしかできない僕だけど、笑うことで何か明るい光が見えてくれば、本当にいいんだけどね」と語っていた。

その志村けんはコロナ禍の元、肺炎を拗らせ、2020年3月に死去した。

「押すなよ押すなよ」つって押されて熱湯風呂に浸かり、慌てて氷で冷やす、でお馴染みのダチョウ倶楽部の上島竜兵さんが自殺?だかなんだかで2022年5月に死去した。
どのみち繊細なひとだったんだろうと想像する。

「苦役列車」で芥川賞を受賞し、僕は何一つ彼の作品を読むことはなかったしこの先もきっと読まない。彼の作風からは虚栄心や体裁を整えたいと言うような風を吹かさないだろう事が安易に想像つくから。
そしてそれこそは自分もそうありたいと思う作風なので。
その西村健太さんが享年54歳で逝去した。

志村けんさんについては、福岡にいる僕とのテレビ電話である女性はさめざめと泣き腫らしその理由は
「今でも側にいそうなおじさんがある日突然に亡くなった」からだと彼女は言った。

同じ理由で上島竜兵さんと西村健太さんについては、僕自身大泣きに声を出して泣いた。
「オレも死ぬのか?タグチも死ぬのか?」
「ターくんそれは間違いなく死ぬ、オレもターくんもやそれだけはかくじつやねん」
脳の暖かい同級生の寺本宝生は死ぬ事をうまく理解できなかったみたい。
その歳の夏、可愛がってくれたおばあちゃん、三浦和子が亡くなった事でやがて自分にも死が訪れる事を身体が知った。

息子の遊樹がまだ2歳くらいの時、湯船の中で
「このまま順当に行けばまずパパが死ぬな。その後にママ。少し離れて順番通りなら次は葉香。
最後まで生きているのは遊樹。君だけやぞ!」どう?
みたいな話を、さも当たり前のように遊樹に噛んで含めるように諭した。
遊樹は空を睨みながら少し考えてしばらくしてぎゃーんと泣き叫んだ。
ママが慌てて扉を開けて。
「何があった?!」
僕は大笑いで
「なんもないよ。遊くんに事実を伝えただけ」
事実を伝えただけ。
人間だけと言わず生きるもの全てには遅かれ早かれ死が訪れる。
その当たり前の事を受け入れられないのは、僕だってどうかと思う。

僕のいとこ、三浦克則が享年45歳で亡くなった。とても良くしてくれ、僕ら三人兄弟の誕生日にはおばあちゃんの使命で必ず家に来てプレゼントを用意してくれた。
僕が41歳になった翌月父が亡くなった。享年73歳だった。

三人兄弟の末に生まれた自分は少し歳が離れていたからか、雅樹直樹に比べて格段に可愛がられた記憶があり、兄2人も同様の意見があるように思う。

高校生の頃むさぼるように読んだ坂口安吾の短編小説に「夜長姫と耳男というのがあって
“好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして”
という一節がある。
夜長の里の長者の元で美しいまだ13歳の姫の今生校後世をまもりたもうホトケの御姿を彫らせるべく名高い三人の匠に腕を競わせる事にした。
主人公の耳男は馬並みに耳が馬鹿でかい男で3年間掘り続けているうちに、両耳をエナコいう女児に切り取られそれでもそんな事は位に介さず
「虫ケラに耳を噛まれただけだ」と思う始末。
そして景品のエナコの身体は彼女自身は耳を切り落とした懐刀で自らの胸を突き刺して自死したので褒美は無に帰した。
市中で流行る流行病、ホーソー、次々とキリキリ舞いを起こして亡くなる平民。そんなのを見て飛んで喜ぶ夜中姫。

坂口安吾は48歳で逝去した。

同じく好きな作家、何度も何度も読んだ短編に開高健の「珠玉」の中の一編「掌のなかの海」てのがあって。
想像するに舞台は今でいう芝浦アイランド北口あたりかしら?
東京の片隅で時折会う老医師とのたまの鉢合わせ。おかくずが巻かれた小さなバーでの話し。オールドパーのロックをだかを2杯ほどだけ飲んできっかり帰る。それだけで会話はほとんどなし。
ある日その老医師に呼ばれて足立区の(あくまで想像)古いアパートに招待される。
そこで出されたのは夥しい数のアクアマリン達。寄った世界の港港で買い集めたモノたち。
聞けば病院を売り、行方不明になった息子を探しに2週に一度のペースで福岡から東京にきて、遺失物センターに問い合わせして息子の行方を探しているのだと。お酒もはいったこともあってさめざめと泣きながら「寂しいとです寂しいとです」と肩をゆすって静かに泣いていた。
この短編を読んで以来アクアマリンを見つけては、ちいさな財布を開いてよほどの事がないかぎりこの物語を胸に小遣いをはたいて買うようにしている。
少し大きめのハナクソ程度でも良いので、と。
開高健は59歳で逝去した。

自分は28の時二度目の入院をして、神経ベーチェットだと診断され無慈悲に
「さいあくしぬよ」といわれた。

最悪でなくても僕は死ぬ。
僕も死ぬ。

「田口さんにとっての幸せってなんですか」
会社をこさえてこっち側、何度も受けた質問。
その度に何度も脳内を逡巡したのだけど最近到着したのは、自分が直接、採用に関わった人の活躍を知った時だと断言できるようになった。
あのヤンキー採用の神谷が事業を売却し新たに会社を起業した。東大卒の三谷が事業を売却した。元の会社も後輩の中村一彰も事業を売却した。これも会社の後輩の遠藤が事業売却に成功した。
一緒に会社を造った釜野も株式売却に成功したそうだ。
そしてなんと言っても山本徹がOB初のSMS初の上場企業の社長となった。
自分はどなたが名付けたか知らないけどSMSマフィアと言う言葉が好きではないけれど彼等をマフィアと言い得るならゴッドファーザーが当然居てもいいはずで。。

以後は、金児が続くし、阿久根が、井下が続く。
いま軽く思い出しただけでこれくらいの分子たちが僕の会社にはいたし、いてくれた。
そしてこれが会社の文化ならこの先もこの様子は変わりなく続くのだろう。

ある日突然、社是は
「永続性!」だと諸藤が豪語したこの会社は今のところ順調な進捗なのだと思う。第一期を、のぞいて19期連続増収増益の会社はそうそうないだろうし、創業から5年足らずでマザーズ、
9年やそこらで東証1部に上場するスピードもなかなかだと思う。

20年ほど前、大森駅近くに諸藤と2人きりで創ったほんの小さな会社は少しづつ大きくなり、家族と友達から集めた資本金の1000万はすぐに底をつきかけた。それでも社員総勢6人は薄給に歯を食いしばり這いつくばって急を凌いでなんとか生き延びた。資金調達の類はほとんど記録に残っていない。少し良いところに引っ越しても朝5時46分の準急に乗って必ず7時前には麹町の本社に着いた。経費なんて切った記憶がない。
自分は「上司」と言う言葉がきらい。
「部下」て言葉も嫌い。
「マフィア」も嫌いだしなにより
「エンジェル投資家」てのが嫌いでね。そもそもエンジェル投資家てなんなのか。一度そう言う題名の番組に出た事あって森永チョコポールの金のエンジェルの当たる確率見た事ある。その結果金のエンジェルが出る確率は1/500との事。
そんな割の悪いエンジェルおるかい!とね。

どれだけ自分が、アル中上がり、脳年齢75歳のかなり怪しい頭脳の持ち主だったとしても投資先はも少しマシだろうと。
そんな事もあっていつか死の訪れる自分も先日48歳を迎え、いよいよ死へのカウントダウンかなと残り日数を数えてみますれば4830日とでましてですね。
コレは面白い残日数だなと。

また敬愛する山下さんと2回目の創業を決めた事も相まって俄然やる気が出てまいりました。
と。

生々流転
全てのものは絶えず変化し、移り変わってゆくものです。

僕がこさえた創業に携わったかもしれない会社
マフィアたちの会社
全ての社員さんに幸多かれと祈念しております
ご高覧ありがとうございました。