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街は変わっていくし、変わっていかないといけない。

最近、2年振りくらいに実家のある京都に帰った。僕の実家は観光地で有名な嵐山の近くにある。嵐山に住んでいると言うと、驚いてくれる人も多いので書いておくが、嵐山は観光地以外の地域は普通の住宅地である。

2年も帰っていないと、昔からの見慣れた風景から大きく変わっているところを発見することが多かった。2年と言ったが、感覚で言うと、8年前に京都を出たので、その時までに目に焼き付いている「8年前からの風景から変わっている」と考えた方がいいかもしれない。

住宅地には新しい家もあれば、昔からある家もある。何より実家周辺の10軒くらいの内、4軒が新しい家に建ち変わっていたので、その変化には驚いた。一方の観光地区域も、どんどん新しい建物が建っている。こんな店あったっけ?が沢山あった。

変化した風景に最初は違和感があった。寂しい気持ちもあった。「あー、昔の風景と変わっちゃうんだな。なんか嫌だな。」と。今、住んでいる十勝では絶対に感じることがない感情である。なんせ、昔を知らないのだから。

十勝での街の移ろいを今の自分がどう捉えているのかを考えてみた。「どんどん新しく変えていくべきだし、伝統を受け継ぐなんていうのは言い訳。」もちろん、いいところは残していく、悪いところを改善していくという意味で。

十勝での感覚と京都での感覚がダブルスタンダードになっていたことに気がついた。そして、京都で感じた「嫌だ」という感覚をよくよく考えてみたところ、「ただ変化するのが怖いだけ」だった。近所に新しく家が建ったらどこぞの誰がくるのかわからないし不安だ。とか。

そういう気持ちになった自分がバカだなと思った。

そもそも京都は、伝統を守って育ってきた街ではない。と自分は考えている。新しいもの好きで、新しいものをどんどん取り入れて、生き残ってきた街だと。

京都は新しいことを取り入れ生き残ってきたし。新しいことを取り入れるなかで、結果的に昔からある良いものは洗練されて、歴史あるものが残ってきたのだと思う。

ずーっと古いままだと、生き残ることすらできない。生き残るために変化をしてきたから、伝統や歴史があるのだと思う。

※最近何かと話題で儲かりすぎてあらゆるものがキレイになっていく近所の神社

それに気づいた後、改めて実家周辺の現状を考えてみると、「新しい家や店ができる。空き家だったところには、新しい家が建ち、空き家も貸しに出されている。」

最高の場所じゃんと思った。

なぜなら、新しい人がどんどん来ているから。

年老いていく、両親の周りに若い人達がいること。いつか2拠点生活を始めた時に関わるかもしれない同世代、もしくは少し上の世代がいること。周りに人がいるということ、これは大変有り難いことである。

十勝に帰ってからも、この感情はしっかり残しておきたいと思い、アカウントを作ってほったらかしだったnoteを開いた。

街は変わっていくし、変わっていかないといけない。良いものは残し、悪いものを変え、新しいと古いを交わらせていかなければいけない。

・通っていたそろばん教室は健在

これからの自分。十勝では、よそ者はよそ者らしく。ただ、子どもの頃から育った街の移ろいを見る中で感じる感情を理解した上で、地元に根を張る人達と接していきたい。


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