生活保護ケースワークの外部委託(生の統治編)

はじめに(まとめ)

 生活保護の外部委託について、「生活保護ケースワークの外部委託(基礎編)」を書きました。
 今回は、「生活保護ケースワークの外部委託(生の統治編)」として私の考えをまとめながら紹介したいと思いました。しかし、「生活保護ケースワークの外部委託」について全く触れていない記事となってしまいました。

 一応、まとめさせていただくと以下のとおりです。

 生活保護は「社会福祉」を捨てるべきだと私は感じています。
 「社会福祉」としての生活保護は、「自立の助長」と結びつきます。個人変革をもって社会に適合させようします。このように「社会福祉」としての生活保護の強調は、個人の「生」のあり方を否定的に捉えます。一方、「社会保障」としての生活保護は、すべての人の「生」を肯定的に捉えるものだと私は理解しています。
 また、専門性の高い生活保護担当は、「社会福祉性を確保する」ための存在として理解されていることに留意する必要があると思います。
 生活保護は三つの自立支援を取り入れ、自立支援プログラムを導入しました。なお、自立支援プログラムの参加は、公権力の行使が背景にある「縦の関係」に基づいています。
 立法時には、「最低生活保障」と「自立の助長」について、「憲法二十五條の生存権保障の理念に基いてなされるものである建前上、直接の目的は最低限度の生活の保障にある」とされていました。
 しかしながら、「生活保護制度について、経済的な給付に加え、組織的に被保護世帯の自立を支援する制度に転換」が図られ、自立支援プログラムが導入されています。
 三つの自立支援と自立支援プログラムが何をもたらしているのかを、生活保護ケースワークの外部委託が議論されている今こそ考えたいです。
 三つの自立支援は、現場では肯定的に捉えられているように感じます。しかし、生活保護担当により生活保護利用者の「生」そのものが統治されています。生活保護担当が、あらゆる「再生産」領域にまで自立を求めることを是とする機能を果たしています。
 さらに、「自立支援」をキーワードに、生活保護制度の新自由主義的な再編が行われています。ここでは、経済的「再分配」が後景化し、社会的「承認」が強調されています。このトレードオフの関係こそ見直さなければいけません。
 生活保護ケースワークの外部委託が、生活保護の新自由主義的な再編を強化してしまう。それに大きな危惧があります。さらに生活保護ケースワークの外部委託が導入されれば、これらを見直すことは一層困難になると考えられます。

 生活保護ケースワークにおいて、「生」の全肯定こそが目指すべき指針の中核であると私は感じています。「自立支援」が外部委託されたとき、その「自立支援」の担い手は社会的「承認」が得られる「生」のあり方を求めつづけます。それはその人の「生」のあり方を否定しつづることになるのではないでしょうか。外部委託された民間が「生の統治」をする担い手となることにも大きな危惧があります。

生活保護が「福祉」を捨てるとき

 9月12日に全国公的扶助研究会にて「生活保護が『福祉』を捨てるときーケースワークの外部委託の衝撃ー」というオンラインセミナーが行われました。私は、生活保護は今こそ「福祉」を捨てるべきだと考えています。

 まず、小山進次郎「生活保護法の解釈と運用」より引用します。

 第一の問題点は、生活保護制度が憲法第二五条に定められた国民の基本的人権としての生存権を保障するための制度であることは論議するまでもないとして、そもそもこの制度の本質は社会保障の制度たる点にあるか、乃至は社会福祉の制度たるにあるかということであつた(83頁)。

 社会保障制度とは国民の最低生活を保障するための制度、社会福祉制度とは最低生活保障ということとは直接関連させず広い意味で社会の福祉を増進することを目的とする制度という程の意味、内容において議論されたのである。さてこのような前提に立つて先ず旧法を眺めてみると、少なくとも法律の条文に規定された建前だけから論ずれば、旧法は明らかに社会福祉の法であつて、社会保障の法ではなかつたと云わなければならなかった(83頁)。

 一般の風潮としては、生活保護制度の改善、強化は専らそれの持つ社会保障性を強化することによつてのみなしとげられるもの、ひいてはこの法律としては社会福祉の法律であることを脱皮して社会保障の法律となることが今後の正しい方向であると考える傾向を生じてきた(83頁)。

 この問題は、理論的には社会政策と社会事業との関係に関する基本的な問題であつて、この問題を専ら社会政策に関する学問的知識に基き、その方向からだけ割り切ろうとしている現在の我が国の学問的水準では到底解明しつくすことのできない問題であるが、生活保護制度の現実に営んでいる機能を観察し、そこからこの制度の在るべき姿を反省した結果は、この制度が社会保障制度としての性格をより明確にしなければならないことは勿論であるが、同時にこの制度が社会福祉の制度として、この制度により保護を受ける個人々々を社会生活に適応させるようにして行くことを愈々強化することが必要であるとの結論に達せざるを得なかつた。法第一条の目的に「自立の助長」を掲げたのは、この制度を単に一面的な社会保障制度とみ、ただこれに伴い勝ちな惰民の防止をこの言葉で意味づけしようとしたのではなく、「最低生活の保障」と対応し社会福祉の究極の目的とする「自立の助長」を掲げることにより、この制度が社会保障の制度であると同時に社会福祉の制度である所以を明らかにしようとしたのである。又、後に「社会福祉主事設置に関する法律」(昭和二五年法律第一八二号)により改正されたが、この法律の第二一条に社会福祉主事の設置を規定したのもこの法律の社会福祉性を確保するためである(84頁)。

 旧生活保護法は社会福祉の制度でした。そして、社会保障の制度としての改善が求められていました。しかしながら、生活保護は社会福祉を捨てきれませんでした。生活保護法の目的は「最低生活保障」と「自立の助長」の2つあります。「最低生活保障」は社会保障としての生活保護と結びつき、「自立の助長」は社会福祉としての生活保護と結びつきます。
  なお、小山進次郎は『社会保障関係法〔Ⅱ〕』において、社会福祉とは「何らかの意味において社会的基準から背離している者を指導して正常な社会の一員として自立させることを目的としている」と定義しています。
 さらに、社会福祉主事は、社会福祉性を確保するための存在とされています。社会福祉主事は、今日では三科目社会福祉主事が揶揄されることもありますが、当時は専門性の高い職員として想定されています。生活保護担当に高い専門性を求めることは、「社会福祉」という目的に収奪・回収されてしまうことが示唆されています。

自立の助長と欠格条項の関係

 「自立の助長」は「社会福祉」としての生活保護と結びつきます。ここで、「自立の助長」とはどういうことなのか見ていきたいと思います。

 立法当時の厚生省社会局長木村忠二郎は、『改正生活保護法の解説』にて次のように述べています。

本法制定の目的が,単に困窮国民の最低生活の保障と維持にあるだけでなく,進んでその者の自力更生をはかることにあることは,国の道義的責務よりしても当然のことであるが,改正法においては第一条にその趣旨を明言してこの種の制度に伴い勝ちの惰民養成を排除せんとするものである(49頁)。

 一方、立法当時の保護課長であった小山進次郎は、「生活保護法の解釈と運用」にて次のように述べています。

最低生活の保障と共に、自立の助長ということを目的の中に含めたのは、「人をして人たるに値する存在」たらしめるには単にその最低生活を維持させるというだけでは十分でない。凡そ人はすべてその中に何等かの自主独立の意味において可能性を包蔵している。この内容的可能性を発見し、これを助長育成し、而して、その人をしてその能力に相応しい状態において社会生活に適応させることこそ、真実の意味において生存権を保障する所以である。社会保障の制度である生活保護制度としては、当然此処迄を目的とすべきであるとする考えに出でるものである。従つて、兎角誤解され易いように惰民防止ということは、この制度の目的に従つて最も効果的に運用された結果として起ることではあらうが、少くとも「自立の助長」という表現で第一義的に意図されている所ではない。自立の助長を謳つた趣旨は、そのような調子の低いものではないのである(92・93頁)。

 両者の論は、「惰民の防止」の対立軸に注目されています。生活保護法が成立した第七国会資料の生活保護法案逐条説明を見ると、当時の公式の説明では「惰民の防止」が主流だったであろうと判断できます。そして、小山進次郎の「自立の助長」は多くの人から支持されていると感じています。しかし、小山進次郎の「自立の助長」でも、「惰民の防止」それ自体を否定しているわけではありません。本質的には同じではないかと私は感じています。旧生活保護法における「欠格条項」の代替として「自立の助長」が機能しているからです。

 「生活保護制度の改善強化に関する勧告」(1949年9月)において、無差別平等、国家責任による最低生活保障、保護請求権、不服申立制度の導入とともに、「(三)保護の欠格条項を明確にしなければならない。」を原則とされています。

 この勧告について、村田隆史『生活保護法成立過程の研究』(自治体研究社 2018)にて、『生活と福祉(第153号)』1969年にて日本社会事業大学の学監であった仲村優一と厚生省社会局保護課長であった小山進次郎との対談の分析を紹介します。

 仲村は勧告の作成に関して、小山が深く関わっていたのではないかと聞くと、小山は率直に「私の作文なんです」と答えている。そして、勧告に「保護の欠格条項」が含まれていることを問われると、社会局保護課の伝統であることを認めながら、「やっぱり保護というものはそういう厳しさを伴ったものなんですね。無差別平等ではあるけれども、受けるには、受ける者の欠格条件というものがあるというんで、それに該当するようなことがあるとすればこれはいかに無差別平等な保護といえども及び得ないんだ」と無差別平等を基本とする公的扶助にも「欠格条項」が不可欠であることを明確に述べている。
 しかし、「欠格条項」が新法に明記されなかった点は、生活保護法(旧法)とは大きく異なっている。ただし、「法文化の段階で、多分うやむやの格好になっているはずですわ」と、小山は「欠格条項」を明文化しなかったものの、別の形で残したことを示唆している。これらの発言は、小山が公的扶助の原則である無差別平等を十分に受け入れられなかったことを示している。
 仲村は小山に対して、「保護の欠格条項を明確にしなければならない」と勧告に含まれていることと、新生活保護法第1条に「自立助長」が含まれていることは、関係しているではないかと質問している。これに対して、小山は「それとは、それほど理論的な結びつきはありません。説明としてはいろいろ関連させることがあったと思うんですが」と明確には否定していない。その上で、「自立助長」を入れた意味は「惰民養成」防止ではないこと、新生活保護法が社会福祉の制度であることを強調している。さらに、仲村が旧生活保護法時には、現に労働を怠る者や素行不良の者を保護の対象にしてこなかったことを例にあげながら、「新法の考え方は、そういう人であっても、社会の一員として十分この社会に適応できる人として更生させていくべきだという考え方、そこに結びつけて、自立助長ということがいわれたんだというふうに解釈してもよろしいんでしょうか」と聞くと、小山は「その点はおっしゃる通りだったと思います」と答えている(ここまでは対談をもとに分析している)(203・204頁)。

 なお、「最低生活保障」と「自立の助長」の関係については、新生活保護法が成立した第七国会の資料では明確に「最低生活保障」が優位であることが示されています。

「問」この法律の目的の重点は、生活を保障するにあるか乃至は自立を助長するにあるか。

「答」この法律による保護は、憲法二十五條の生存権保障の理念に基いてなされるものである建前上、直接の目的は最低限度の生活の保障にある。自立の助長ということは進んで求めるべき目標を示したものであって、まずその前提として最低生活の保障という基盤が確保されねばならない性質のものである。

「生活保護制度の在り方に関する専門委員会」報告書

 社会保障審議会福祉部会「生活保護制度の在り方に関する専門委員会」報告書は、現在の生活保護制度の運用に大きな影響を及ぼしています。
 この報告書では、まず生活保護制度を、「利用しやすく自立しやすい制度へ」への改革が図られています。また、生活保護における「自立支援」は、「就労による経済的自立支援」、「日常生活自立支援」、そして、「社会生活自立支援」の三つの自立支援であることが述べられました。

本委員会は、「利用しやすく自立しやすい制度へ」という方向の下に検討を進めてきた。すなわち、生活保護制度の在り方を、国民の生活困窮の実態を受けとめ、その最低生活保障を行うだけでなく、生活困窮者の自立・就労を支援する観点から見直すこと、つまり、被保護世帯が安定した生活を再建し、地域社会への参加や労働市場への「再挑戦」を可能とするための「バネ」としての働きを持たせることが特に重要であるという視点である。この結果、被保護者は、自立・就労支援施策を活用することにより、生活保護法で定める「能力に応じて勤労に励み、支出の節約を図り、その他生活の維持、向上に努める義務」を果たし、労働市場への積極的な再参加を目指すとともに、地域社会の一員として自立した生活を送ることが可能になる。なお、ここで言う「自立支援」とは、社会福祉法の基本理念にある「利用者が心身共に健やかに育成され、又はその有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように支援するもの」を意味し、就労による経済的自立のための支援(就労自立支援)のみならず、それぞれの被保護者の能力やその抱える問題等に応じ、身体や精神の健康を回復・維持し、自分で自分の健康・生活管理を行うなど日常生活において自立した生活を送るための支援(日常生活自立支援)や、社会的なつながりを回復・維持するなど社会生活における自立の支援(社会生活自立支援)をも含むものである。

 また、報告書では、自立支援プログラムの導入が提言されています。自立支援プログラムは、生活保護利用者が「主体的に利用するもの」であるとしつつ、生活保護利用者が自立支援プログラムの参加を拒否する場合には状況によっては生活保護の不利益処分を行うべきことを明示されています。
 具体的には、「被保護者の積極的な取組を求めるという観点から…自立支援プログラムは被保護者が主体的に利用するものであるという趣旨を確保する必要がある。」とされています。一方で、「被保護者が合理的な理由なくプログラムへの参加自体を拒否している場合については、文書による指導・指示を行う。」、「それでもなお取組に全く改善が見られず、稼働能力の活用等、保護の要件を満たしていないと判断される場合等については、保護の変更、停止又は廃止も考慮する。」とされています。
 自立支援プログラムの法的根拠を、生活保護法第27条の2にあることを前提に説明されることがありますが、これは「要保護者に対する強制力はない」ことが前提です。
 現行の自立支援プログラムは対応な関係に基づくものではなく、不利益処分という公権力の行使が背景にあることは留意する必要があると思います。

生活保護法(一部抜粋)
(相談及び助言)
第27条の2 保護の実施機関は、第55条の7第1項に規定する被保護者就労支援事業を行うほか、要保護者から求めがあつたときは、要保護者の自立を助長するために、要保護者からの相談に応じ、必要な助言をすることができる。

 平成12年3月31日社援第824号「地方分権の推進を図るための関係法律の整備等に関する法律による生活保護法の一部改正等について」より
 従来から、ケースワークの一環として事実上行われてきた要保護者の自立助長のための相談及び 助言に係る事務を、自治事務として法定化することとし、第二七条の二の規定を創設したこと。この事務については、要保護者の求めに応じて行うものであり、要保護者に対する強制力はない。

平成17年度における自立支援プログラムの基本方針

 上記の報告書を受けて、厚労省は、平成17年3月31日社援発第0331003号「平成17年度における自立支援プログラムの基本方針について」を発出しました。
 この中では、「今般、生活保護制度について、経済的な給付に加え、組織的に被保護世帯の自立を支援する制度に転換するため、その具体的実施手段として『自立支援プログラム』の導入を推進していくこととした」と明言されています。
 立法時の国会に提出された資料では、「最低生活保障」が「自立の助長」が優位であることが明示されていましたが、「自立を支援する」ことが強調されるようになってきております。
 さらに、「全ての被保護者は、自立に向けて克服すべき何らかの課題を抱えているものと考えられ、またこうした課題も多様なものと考えられる」とされました。これは生活保護利用者に対する差別であると私は感じます。
 また、小山進次郎「生活保護法の解釈と運用」では、「ケースワークを必要とする対象」という表現があることから、ケースワークを必要とする対象でそうでない対象があることが示唆されています。

(ケースワークについて)法律技術上の制約によりケースワークを法律で規定することが至難であることのために、この法律の上では金銭給付と現物給付とだけが法律上の保護として現れている。従って、現実には保護として行われ、且つ、被保護者の自立指導の上に重要な役割を演じているケースワークの多くが法律上では行政機関によって行われる単なる事実行為として取り扱われ法律上何等の意義も与えられていない。これはともすれば生活保護において第一義的なものは金銭給付や現物給付のような物質的扶助であるとの考を生じさせ勝ちであるけれども、ケースワークを必要とする対象に関する限り、このように考えることは誤りだと言わなければならない。例えば、身体も強健で労働能力もあり、労働の意思もある人が一時的に失業し、生活に困窮した場合には、この人に必要なものは就職の機会とそれ迄の生活費の補給であるから、生活扶助費の給与ということがこの場合の解決策であろう。然しながら、同じく生活扶助費の給与ということを法律上の保護の形を採りつつも、若しもこれが労働を怠る者の場合であるとしたら問題は全然異るであろう。このような者も社会生活に適応させるようにすることこそ正しくケースワークの目的とする所であるが、この場合には恐らく金銭給付は全体の過程の単なる一部分であるに過ぎず、寧ろ、保護の実体的部分は法外の事実行為として行われるであろう。従って、この制度の運営に当る者は、常に、事実行為をも含めた広い意義の保護を念頭に置いて事に当る必要があろう。(95・96頁)

「生」そのものを統治する生活保護制度

 三つの自立支援の概念は、実施機関が「就労自立支援」に偏っていることへの反省から生まれたものと私は理解しています。実施機関が「就労自立支援」を求めて指導指示を行い、不利益処分を行う構造を見直す意味があったと思います。しかし、「全ての被保護者は、自立に向けて克服すべき何らかの課題を抱えている」と見なした上で、三つの自立支援を推し進めていくことには大きな問題も含んでいます。
 「経済社会とジェンダー」第2巻に収録されている堅田香緒里「対貧困政策の新自由主義的再編 ―再生産領域における「自立支援」の諸相」より引用させていただきます。

 自立の範囲が拡大し、それへの「支援」が充実するということは、それだけ貧者は、生のあらゆる場面において自立を求められるようになる、ということでもある。そこでは、単に働かない、就労意欲がないといった「就労自立」を問われるのみならず、健康管理や家計管理を正しく行っているかといった、日常生活・社会生活における「ふるまい」までもが問われるようになり、あらゆる個人が、それぞれに応じた「能力の活用」、「自立」を求められることになるのだ。皮肉にも、こうして再生産領域に至るまで一人一人の生に「寄り添った」支援が拡張すればするほど、それでも「自立」できない者、「能力」を「活用」していない(とみなされる)者の自己責任はますます強調され得るだろう。そのとき「支援」は、自立できない(とみなされる)貧者の自己責任を強弁するためのアリバイとなりはしないだろうか。こうして、再生産領域を含む生全般の管理ともいえる事態も「自立の支援」として正当化され、貧者の生のすみずみに「自立支援」の権力が浸透し、貧者は、ますます自立への義務に駆り立てられていく。

 さらに、桜井啓太先生も同様の指摘をしております。
 埋橋 孝文・ 同志社大学社会福祉教育研究支援センター (編集)「貧困と就労自立支援再考ー経済給付とサービス給付」(法律文化社 (2019/10/16))に収録されている桜井啓太「就労自立支援サービスの現在■生活困窮者・生活保護の視点から」より引用します。

 個別課題の現場でグッド・プラクティスであった実践が、政策誘導のなかで、ひとたびプログラム化されて対象者すべてに適用するとなったとき、権力の側、支援する側にとって、それは対象者を「値踏み」するような形態に変わることがあります。プログラムを前提に、ケースワーカーがアセスメントする場面において、「『一般就労』ができますか?」→(できない)→「では『中間就労』はいかがですか?」→(できない)→「では『社会参加』のプログラムはどうでしょう?」→(できない)→「せめて『日常生活自立』してくださいね」ということになりかねない。国が求めるあるべき姿があって、そこからどれだけ離れたところにいるのか、階段というよりは対象者を上から下へ値踏みする物差しのようなものになるおそれだってある。
 これは「プログラム化」の難しさではないでしょうか。対象者を常に「課題を抱えている」「何らかの支援する余地を残している」存在としてみつめるのは、ロベール・カステルがいう「永遠の参入者」、つまり、制度のお世話になっている限り、永遠に支援を受け続けなければならない受給者像であるといえます。それは同時に、永久に支援をし続けなければならないソーシャルワーカーのあり方と表裏の関係でもあります〔カステル 2012〕(74・75頁)。
※カステル、R/前川真行訳(2012)『社会問題の変容ー賃金労働の年代記』ナカニシヤ出版

 桜井智恵子・広瀬義徳編「揺らぐ主体/問われる社会」(インパクト出版会(2013/12/25))に収録されている桜井啓太「第十三章『自立支援』による福祉の変容と課題」では、次のように述べられています。

 自立支援という言葉は「自立」している人々が「依存」している側を非難する役割を潜在的に持ち合わせる。自立に強い価値をおく社会は同時に「依存」と「怠惰」の排斥に向かう。けれども自立支援の発明は、バウマン流に言えば、自立していない人々ではなく、自立している人々のためのものである(205頁)。
 フレイザーらの研究が示唆するように、「自立」とは、その時々の支配層が自分達の行動様式を正当化するために用いた言説にすぎない。であるならば、社会的弱者とされた人々の生のあり方は、それがどのようなものであれ「依存的」であり、そこから抜け出すことのみが「自立」とみなされる。「自立支援」は強者の論理で弱者を眼差す。それではたとえ個別の成功例はあっても、結局のところ今の社会の構造を強化するにすぎないだろう。では、私たちが目指すべきなのは、真の「自立支援」などというまやかしではないはずだ。むしろ「自立」の徹底的な否定こそが今必要とされているのかもしれない。なぜなら当たり前のことだが、私たちの生のあり方は、「依存」が通常の形態だからである(208頁)。

「再分配」か「承認」か?

 さらに、堅田香緒里先生は上記の論文で、「再分配」と「承認」に関する取引関係(トレードオフ)の関係になっていることを指摘しています。

 今日の一連の対貧困政策においては、経済的「再分配」が後景化し、「自立支援」を媒介とした社会的「承認」に大きな比重が置かれている。そもそも経済的給付を効果的に行うには中央政府の責任が重要になってくるが、「再分配」の後景化と共に現在では中央政府の責任はミニマム化し、「自立支援」の旗印の下、そうした「支援」の担い手として地方自治体や民間活力への期待が高まっている。とりわけ、日常生活自立や社会生活自立に関わる再生産領域における「支援」において、NPO や女性をはじめとする市民社会の「活用」が積極的に行われている。 

 埋橋 孝文・ 同志社大学社会福祉教育研究支援センター (編集)「貧困と就労自立支援再考ー経済給付とサービス給付」(法律文化社 (2019/10/16))に収録されている堅田香緒里「対貧困政策の「自立支援」型再編の意味を考える■「再分配」か「承認」か?」では、次のようにまとめられています。

 ごく「当たり前」のことをここで確認するならば、「貧困」とは一義的には「経済的困窮」を指すものです。その意味で、対貧困政策においては、貧者のエンパワーメントにつながる「承認」も確かに大事ですが、それ以上に、困窮状態を直接解消する「再分配」の方が重要であるはずです。「再分配」と「承認」の取引関係を解消する、そうした取引関係を生じさせないような「再分配」のあり方が模索されなければなりません。そのような「再分配」は、特定の「自立」の形態や「参加」を要件としないものであり、そして「個人化」されたものというよりは、「社会化」されたものー「社会賃金」のような形で支払われるようなものーであるでしょう。例えば、ベーシックインカムの構想は、このような「再分配」の1つの候補になるかもしれません(44頁)。