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「アンブローシア・レシピ」第15話

1873年1月9日 カイロ

 エジプトの首都カイロの外国人が多い地区では、アラビア語に混じってフランス語や英語が聞こえる。
 冬とはいえ暖かい陽射しが降り注ぐナイル川の河岸で、洗濯をする女たちと水遊びをする子供たちを眺めていた土曜日ディエース・サートゥルニーは、「師匠メートル」という声に振り返った。
「探しましたよ、師匠」
 かつて『名無し』と呼ばれていた子供のひとりがにこにこしながら近づいてくる。彼は「One dollar」と言いながら群がってくる外国人相手に土産物を売る地元の子供たちを手で追い払い、素知らぬ顔で歩きだそうとした土曜日の腕を掴んだ。
「やぁ、久しぶりだね」
 さすがに他人のふりをするわけにはいかず、仕方なく土曜日はフランス語で挨拶をした。この周辺はあまり白人が来ない場所のため、土曜日と『名無し』だった男は目立っていた。
 物売りの子供たちは、しばらく「One dollar」と言いながら絵はがきを見せようとしたが、ふたりが無視していると去って行った。
「君、その師匠という呼び方はやめてくれないか? 私は君の師匠などではないよ」
 穏やかなナイル川の水面に視線を戻し、土曜日は静かに抗議した。
 八十年前にパリで『名無し』と呼んでいた子供は、当時よりも少しだけ成長している。彼に使った不老不死の霊薬は、彼が老いる速度は抑えているが不老は実現できていなかった。
 しかし、彼がいまも元気そうに生きていることに土曜日は安心した。
 パリの『オルダス・マイン』の工房では、幾人もの『名無し』たちが未完成の薬によって死亡したり心身に不調をきたした。いま目の前に立つ『名無し』だった男は、『オルダス・マイン』工房の霊薬被験者の中でも数少ない成功例だ。
「アレキサンドリアに戻ったら師匠の姿がなかったんで、探しましたよ。勝手にいなくならないでください」
 土曜日の抗議を無視して相手はぼやく。
 アレキサンドリアからカイロまで、どのように自分の足取りをたどって来たのか土曜日は気になったが、面倒だったので聞くのはやめた。
「あそこは最近、外国人が増えてきたから……」
 ぼそぼそと土曜日は黙って姿を消した言い訳をした。
「モロッコに行こうと思ったんだが」
「こことは反対方向ですよ」
「うん、まぁ……道を間違えたようだ」
 かつて、パリからロンドンへ向かうはずがなぜかイスタンブールにたどり着いていた土曜日だ。アラビア語はすぐに習得できたため、そのままイスタンブールで二十年ほど暮らしていたら、この『名無し』だった男に見つかってしまった。以前、自分が持っていた祈祷書を彼に託したときは二度と会うことはないと思っていたので、「奇遇だね」と挨拶をしたら「探しました」と言われた。自分を探す者がいるなど、土曜日は考えたこともなかった。
 この『名無し』に祈祷書を持たせてロンドンに行かせたのは、水曜日ディエース・メルクリィーが祈祷書を必要としているだろうと考えたからではなく、もう錬金術師集団『オルダス・マイン』とは縁を切りたかったからだ。かつては伯父に命じられて嫌々手伝っていたが、伯父が死んだのちは面倒事ばかりが起きたのでますます嫌になった。特に、前任の土曜日が姿を消して自分が土曜日と呼ばれるようになったことが、一番嫌だった。
 祈祷書を届けた『名無し』が「師匠の身になにかあったように少々小細工しておきました」と言っていたが、効果があったのかどうかは不明だ。
「モロッコのカサブランカは、白人が増えていますよ」
「そうか。あそこは、スペインに近いからね」
 ナイル川を泳ぐ子供たちのはしゃぐ声が対岸から響いてくる。
 土曜日は、子供だった頃の自分がセーヌ川で溺れかけたことを思い出して、顔をしかめた。
「それで、ここで住む家は見つけられたんですか?」
「いや……まだだ」
 土曜日は相手にできるだけ背を向けながら答える。
「お金、持っていますか?」
「…………」
「擦られたんですね?」
 お節介な『名無し』だった男は、さもありなんという顔になった。
 かつて土曜日がイスタンブールに流れ着いたのも、有り金をすべて擦られたことが発端だった。ただで乗せてくれるという荷馬車や船を乗り継いでいたところ、最終的にドーバーではなくイスタンブールに着いていた。しかし土曜日は、ボスポラス海峡を船で渡りながら「イングランドは随分とイスラム化しているんだな」とモスクから聞こえてくるコーランに耳を傾けながらしばらく勘違いしたままだった。
「ロンドンに行ってきましたが、『灰の円環』からオルダス・マインは姿を消していました。行方知れずです」
「ふうん」
 できるだけ興味がないふりをしながら、土曜日は相づちを打った。自分がどのような反応をしようが、相手が喋り続けることはわかっていた。自分を勝手に師匠呼ばわりしている元『名無し』は、なにかと『オルダス・マイン』に関する情報を報告したがる。
「どうやらオルダス・マインが霊薬に関する物すべてを『灰の円環』のロッジから持ち出したらしく、『灰の円環』のメンバーがオルダス・マインを探しています」
「集団って、最初はお互いを同志と呼び合って仲良くできていても、すぐに意見の相違とか言って内部分裂するものなんだよ。それで、出て行ったのは誰?」
 人間関係が面倒で流浪の旅を続けている土曜日は、一応尋ねてみた。
「それが、よくわからないんです」
「わからない?」
「フリーメーソン『灰の円環』が結成された当初、オルダス・マインを名乗っていたのは金曜日ディエース・ウェネリス様でした。ところが、ここ二十年ほどの間は、オルダス・マインを名乗っているのは長い顎髭の老人です」
「顎髭?」
「はい」
「男だね?」
「付け髭でなければ、そうですね」
「そして、老人?」
「私も一度だけ遠目で確認しましたが、八十歳は超えていると思われる老人でした」
 相手の報告に、土曜日はようやく視線を元『名無し』に向けた。
「スミス商会に確認しましたが、東方正教会の司祭のような格好をした顎髭の男がオルダス・マインだと言ってました」
「君、まだスミス商会と付き合ってるんだ?」
 土曜日はわずかに眉をひそめて相手を見つめる。
「はい。師匠のことは口外していませんよ」
「君が彼らに親近感を持つのはわかるような気はするけれど……まぁ、いいや。ところで、オルダス・マインが顎髭の爺さんってことは間違いないんだね」
「はい。しかし、師匠たちは――」
「爺さんってことは、木曜日ディエース・ヨウィスや金曜日ではないってことだ。かつてパリを出る際に霊薬を飲んだ私たちは死ぬことはあっても、老いることはない。ま、君は霊薬の効果が薄れてきて少しずつ老いてきているから、私ももしかしたら老いるかもしれないけれど」
 元『名無し』は、初めて会ったときからまったく老いていない土曜日を見つめた。全体の雰囲気だけは老成しているが、顔の肌つやは二十代前半の青年だ。
「では、誰かが勝手にオルダス・マインを名乗っている、ということでしょうか」
「どうだろうな。霊薬に関する物を持ち去ったということは、工房の研究についてなにかしら知っていた者のはずだ」
「と、おっしゃいますと?」
「水曜日が仕掛けた罠に引っかかった獲物じゃないかな」
 またナイル川に視線を戻し、土曜日は小さく答える。
「私の前に『土曜日』と呼ばれていた者が工房にいたことは、君も知っているよね?」
「はい。お目にかかったことはありませんでしたが」
「その『土曜日』は、水曜日の実の弟だったんだ」
「え?」
「血縁関係は公表していなかった。本来、工房には血縁者を入れないことになっていたんだ。身内で研究を独占しようとする者が出ないようにするためにね。日曜日だった伯父が私を工房に入れたのは特例だ。私は伯父が工房に在籍していた間はずっと雑用係だったから、他の錬金術師たちも黙認していた。しかし、水曜日と土曜日がきょうだいという例外は認められない。だから水曜日は隠していた。そのせいで――」
 土曜日はナイル川の水面で跳ねる魚をぼんやりと見ながら淡々と語った。
「土曜日が姿を消したとき、水曜日は弟を探すことができなかった。去る者は追わず、が工房の規則だ。皆が、いなくなった者は放っておいて研究に専念しろと言った。水曜日は、研究熱心だった弟が失踪した理由がわからなかった。工房が研究している不老不死の霊薬は水曜日にとって必要なものだったから、弟も研究を手伝いたいと素姓を隠して工房に入ってきたんだ。そんな土曜日がなぜ黙って姿を消したんだと思う?」
「師匠は、なにがあったかご存じなんですか」
「ただの推測だよ。土曜日が工房に現れなくなった数日後、今度は火曜日ディエース・マルティスが余所の工房ともめ事を起こして焼死体で発見された。明らかに殺害された後、火をつけられていた。なぜ相手はそこまでしたのだろう? 死体が誰であるか判別できなくするためだろうね」
「……つまり、それは」
 元『名無し』が言葉を詰まらせる。
 土曜日は二度まばたきをして、ため息をついた。
「霊薬が完全な不老不死ではないものの、あるていど形になったところで完成したと水曜日が宣言したのは、火曜日の身代わりにさせられた弟の復讐のためだよ。あの当時、水曜日は誰と誰が火曜日と組んでいるのかわからなかった。工房の中で火曜日とつながりがないと確信できていたのは私だけだった。だから水曜日は、私に処方箋を運ぶ役を任せたんだ」
 かすかに風が吹き、土曜日の髪を揺らす。
「いま、『灰の円環』のロッジに残っているのは、師匠が持っていた処方箋を、誰かが書き写した物だけです。あれでなんとか霊薬を作れないものかと、『灰の円環』のメンバーは研究しているようです」
「無理だよ」
 土曜日は首を横に振った。
「木曜日の形見函の中の薬剤があったとしても、無理。いまはもう、ドードー鳥の血が手に入らないから」
「血、ですか」
「代用品は見つかってないって水曜日が言ってた。もちろん、本当に代用品がないかどうかは試してみないとわからないけれど」
 土曜日は元『名無し』に目を向けると、表情を変えずに言った。
「そういえば、霊薬を飲んだ者の血か、人魚の血で試してみる価値はあるって言ってたな」
「いや、その、代用品はないという結論で良いのでは?」
 ひくっと元『名無し』は口元を歪ませた。
「水曜日は、実際に確認しないと気が済まない人だから、君を見たら喜んで採血しようとするだろうね」
「水曜日様の居場所はようとして知れません」
「それは、君にとっては幸いなことだね」
 青ざめている元『名無し』を横目に、土曜日は「すべてを青磁の乳鉢で白磁の乳棒を使って磨り潰し……」とナイル川に向かって唱え始めた。


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