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「アンブローシア・レシピ」第25話

1914年10月6日(3) ポーツマス

 ポーツマスにある『灰の円環アッシュ・サークス支部ロッジに出向いていたアシュレイ・アッシュがロンドンの本部グランド・ロッジに電話をかけると、電話に出たライオネルが開口一番に喋り出した。
『アシュレイさん、悪い知らせと悪い知らせです』
 いつになくライオネルがうろたえている様子に、アシュレイは嫌な予感がした。
「良い知らせはないのか」
『いまのところありません。で、悪い知らせその一と悪い知らせその二のどちらから聞きたいですか?』
「どちらからでもいいからさっさと報告しろ」
 苛立ちながらアシュレイが告げると、ではその一から、とライオネルが話し始める。
『フリート街の支部に保管してあったオルダス・マインの遺品四つがすべて盗まれました』
 チッとアシュレイは舌打ちした。
「犯人はわかっているのか?」
『イーオン・キャスパーです。支部の事務員に保管室の鍵を開けさせて、堂々と持ち出しました。キャスパーの様子がおかしかったので、事務員は阻止できなかったそうです』
「なるほど。で、ふたつめは?」
 受話器を強く握りしめたアシュレイは、もう片方の手でこめかみを押さえながら続きを促した。
『本部が火事です。例のものを保管してある部屋が特に燃えています。油を撒いて火をつけたようで、派手に燃えています』
 例のもの、と聞いてアシュレイのこめかみが引き攣った。それは、アシュレイとライオネル以外は誰も中に隠されているものを知らないはずだった。
「犯人は?」
 答えは予想できていたが、念のためアシュレイは尋ねた。
『キャスパーです。オルダス・マインの名を叫びながら例の物に油をかけていたそうですが、その様子を目撃した者によるとキャスパーはオルダス・マインに異常なほどの恨みを持っている様子だったとか。その場にいた者は皆、巻き添えをくらうのを恐れて早々に建物から退避したので火事による怪我人や死者はいません。最初からあそこにいた死者の状態は未確認です。消防隊にあの遺体を見つけられるのは時間の問題ですね』
「なんでキャスパーが錬金術師に恨みを持っているんだ?」
 錬金術師の遺体を消防士に見つけられると都合が悪い。しかし、いまさら手を打てないことはライオネルの口ぶりから察せられた。
『わかりません』
「まぁ、そうだろうな。ところで、お前がいる場所は安全なのか? 例のものの部屋が燃えているなら、そこもすぐ火の手が回ってくる頃だろう?」
 本部の電話がある事務室は錬金術師オルダス・マインの遺体を安置してある部屋の隣だ。『灰の円環』では、錬金術師オルダス・マインの死は秘匿されており、サイモン・エイプリルでさえ錬金術師はまだ生きていると信じ込まされていた。
『焦げ臭い煙が流れ込んできていますが、問題ありません。ところでサイモンさんがジョン・スミスという男をやたらと気にしていました』
「ジョン・スミス? モーガン教授の家に現れたスミス商会の男か」
『いえ、デイリー・メールの記者だそうで、プリースト診療所の医師が襲われた事件の記事を書いています。先月、ケンブリッジのモーガン教授を訪ねてきた男と同姓同名ということで、サイモンさんは新聞記者もスミス商会とつながりがあるかもしれないと言っていました』
「で、モーガン教授の件とプリースト診療所の医師襲撃事件とはどう絡んでくるんだ? 医師襲撃事件はキャスパーによる事件だが……」
『そこの繋がりはわかりません。ただ、モーガン教授が倒れた際に飲んだ薬は、スミス商会が持ち込んだものではなく、どうやら教授の書斎に最初からあった物であるらしいことがわかりました。大学の研究室に届いた物を持ち帰ったのだと、教授の秘書が証言しています。送り主については秘書は記憶していないそうですが、スミス商会の名前は聞いたことがないそうです』
「なるほど」
『あと、モーガン教授はキャスパーと面識があります。プリースト診療所に関しては、キャスパー以外に所長のダニエル・プリーストがモーガン教授の知人であることはわかっていますが、ダニエル・プリーストについて詳しく知る人物がほとんどいません』
「どういうことだ?」
 軽く眉を上げてアシュレイはライオネルに続きを促す。
『ダニエル・プリーストは14年前までトランスヴァールのヨハネスブルグに住んでいました。生まれはブライトンですが、いろいろと問題があった人物らしく、ロンドン大学医学部卒業後はいったんは地元ブライトンに戻って医師として開業しましたが、20年前にアフリカ大陸へ渡りました。そして、14年前のボーア戦争勃発後にヨハネスブルグに住む民間の英国人がボーア人に襲われる事件が多発したため、ヨハネスブルグからこちらに戻ったそうです。ただ、アフリカを離れたのは戦争だけが原因ではないらしく、ヨハネスブルグでは医師というよりも賭博師として生活していたようで多額の借金を作っていたのを踏み倒す目的もあったようです。その後、ロンドンに移り住みプリースト診療所を開いています。賭け事に関してはさすがに懲りたのか、ロンドンの賭場に出入りすることなく地味に暮らしているようです』
「借金を作るほど賭け事が好きな奴が、賭け事をしていないのか? 殺人よりは癖になるはずだぞ?」
『それが妙なことに、すっぱりと賭け事を止めているんです。よほどヨハネスブルグで痛い目を見たのかもしれません』
「私は、どんなに痛い目を見ても死ぬまで賭け事を止められない連中をいくらでも知っている。借金を踏み倒して身ぎれいになったからといって賭け事を止める奴はいない」
 アシュレイは断言したが、話が進まないからかライオネルは無視した。
『医師としてのプリーストの評判は悪くはないです。下町の住人相手なので診療代は安く、そこそこ繁盛しているようで、診療所では他に二人の医師を雇っています。さらに看護婦と、キャスパーが薬剤師として働いています』
「ヨハネスブルグ、か」
『当時はボーア戦争で混乱していた時期なので、トランスヴァールで暮らしていた英国人が結構こちらに戻ってきています。プリースト診療所で働いている医師のひとりも、同じようにトランスヴァールから避難してきたようです』
「14年前と言えば、例の人物が死亡した時期だ」
『そうらしいですね。ただ、当時ヨハネスブルグに住んでいた英国人をしらみつぶしに探してダニエル・プリーストの知り合いを見つけるのはさすがに無理です。ダニエル・プリーストとモーガン教授が知り合ったのは5年ほど前で、プリーストも霊薬に興味を持って趣味で研究していると言ったそうです。ただ、それは錬金術というよりも東洋医学の方面だとか』
「なるほど。昨日の今日でよく調べ上げたな」
 アシュレイが褒めそやすと、ライオネルは落ち着いた口調で答えた。
『そうですね。これくらいの情報は、前もって用意してありますので』
「……どういうことだ?」
 低い声でアシュレイが聞き返す。
 受話器の向こう側からパチパチとなにかが燃える音が聞こえてくるが、ライオネルは慌てる様子がない。それがアシュレイにはやけに不気味に感じられた。
『サイモンさんがプリースト診療所の調査を始める前にデイリー・メールのジョン・スミスのことをやたらと気にするものですから、ジョン・スミスは後回しにしましょうと忠告したのですが、聞いてくれませんでした。それで、昨日の死体を片付ける手伝いをサイモンさんにお願いしました』
「お願い?」
 嫌な予感がアシュレイの中で沸き上がった。
『死体を川に沈める手伝いをしていただきました。死体を抱えて川に沈んでいただきました』
「おいっ!」
 思わずアシュレイは受話器に向かって声を荒らげる。
 感情が籠もっていないライオネルの声音は普段と同じはずなのに、おぞましく聞こえた。
『さすがに少々あなた方が目障りになってきたんです。あなた方はオルダス・マインのような錬金術師ではない。なのに、オルダス・マインの後継者のような顔をして、我々の領域を踏み荒らしているんです』
「なにを、言っているんだ?」
 相手の言葉がまったく理解できず、アシュレイは息苦しさを覚えた。ネクタイを緩めるが、呼吸が楽になることはなかった。
『スミス商会の人間がなんとかの一つ覚えみたいにジョン・スミスしか名乗らないと思っていましたか? 様々な偽名を使って、あちらこちらに潜り込んでいるんですよ』
 子供に言い聞かせるようにライオネルが説明する。
「スミス商会とは、何者だ?」
 先日サイモンに対してスミス商会の説明をしたアシュレイだったが、自分自身がスミス商会を正しく理解していなかったことを悟った。
『いまさら、ですがお答えしましょう。スミス商会は、世界中にいる錬金術師たちの代理人です。我々は錬金術師たちの研究成果を、必要とする国家や組織に売り込み、提供し、報酬を受け取るのです。錬金術師というのは総じて営利活動が下手でしてね。残念ながら、古今東西の狡猾な商人に錬金術師たちの研究成果をただ同然で奪われることも珍しくありません。昨今は世界各地で戦争が続いており、錬金術師たちの研究が活用できる場が増えてきているんですよ。錬金術師オルダス・マインも、我が商会の顧客のひとりなんですよ。いや、オルダス・マインがいたからこそスミス商会は設立されたと言うべきでしょう』
「オルダス・マインは『灰の円環』の創始者だ。そして、すでに死んでいる」
『えぇ。あなた方『灰の円環』が師事する錬金術師オルダス・マインは死にました。あれは確かにオルダス・マインではありましたが、我々にとっては忌むべき存在です』
「どういうことだ?」
『あれは、オルダス・マインの中でも随一のおぞましい男でした。そもそも、オルダス・マインを名乗る錬金術師は、ひとりではないんです。それなのに、あの男はオルダス・マインの研究のためなら他人の命を消耗品のように使い捨て、仲間を欺きそして裏切り、霊薬を独占しようとしました。罪深いあの男を崇拝するあなたがたも同類です』
「同類? 師匠マスターは立派な人物であったと……」
『あなたのあの男への心酔ぶりは我々から見れば異常です。洗脳されているように見えます。あぁ、そろそろここも激しく燃え始めたので、私も退避します。焼け死ぬことはなくても、火傷をすると痛いことに違いはないので』
 電話を通してアシュレイの耳にガシャンとガラスかなにかが激しく割れる音が届いた。
『あと、背後にお気を付けください。存命のオルダス・マインは、『灰の円環』が解散することを望んでいます。もしくは速やかに組織が消滅することを』
、オルダス・マイン?」
『えぇ、そうです』
 声を震わせるアシュレイに対して、ライオネルはさらりと答える。
『イーオン・キャスパーの目的と我々の利害が一致していたので、私はあの男にほんのすこし手を貸しました。まぁ、まさか新聞記者に事件を調べられるのが嫌で殺害しようと考えるとは思いませんでしたが』
「新聞記者? 殺害? さらになにかキャスパーを唆したのか?」
『人聞きの悪いことをおっしゃる。イーオン・キャスパーは、ある方の指示に従っただけです。少々我々の想像を超える行動を起こしたのには驚きましたが、ジョン・スミスでなければ間違いなく死んでいましたね。あと、モーガン教授の服毒事件とスミス商会は無関係です。スミス商会のジョン・スミスは教授にあることを警告するため訪ねただけなんですよ。そうそう、今後あなた方は金輪際錬金術に関わらないことをお薦めします。いくら莫大な報酬をちらつかせて某帝国が依頼してきたとしても、所詮あなた方は素人の集まりです。錬金術師たちの熾烈な霊薬研究に首を突っ込んで良いものではありません。そもそも霊薬『アンブローシア』は万能薬ではないし、あれを扱える人は限られている。本物の錬金術師でなければ――』
 背筋が凍るのを感じたアシュレイは、喋り続けるライオネルに声を掛けることなく受話器を置いた。
 そのまま、支部にいた古参の事務員に「本部が火事だから、ロンドンに戻る」と告げて足早に建物を出ようとした。
「お待ちください」
 事務員が慌てた様子でアシュレイの背中に声を掛ける。
「なんだ?」
 足を止めて振り返ったアシュレイは、回転式拳銃を握る事務員の姿に目を見開いた。
「背後に気をつけるように、電話の相手に言われませんでしたか?」
 事務員が慣れた手つきで撃鉄を引き起こし、引き金を引く。
 続けざまに二回、銃声が辺りに響いた。


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