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【「怪談の会」★配信あり7月16日(火)18:00~19:00雷門小助六 蜃気楼龍玉  #シブラク】

筆名:Monica(江戸っ子メキシカンジャパニーズ、落語beginner)
職業: ベトナム在住八百屋、イベントプランナー(rakugoon)

待っていましたシブラク!今回は「怪談の会」という事で、怖いのが苦手な私は少々緊張しつつも(あんまり怖くないといいな…)、お皿を数えるお菊さんで有名な「皿屋敷」以外で怪談噺をきいた事がなかったのでワクワクしていました。ちなみに「怖い話を楽しむ」習慣は世界共通な様でして、ベトナムでは旧正月頃になると新作ホラー映画が毎年公開されています。


〇雷門小助六師匠「もう半分」

小助六師匠の声はとても穏やかで聞き心地が良く、言葉の選び方からも優しい人柄が伝わってきました。本題に入る前の「マクラ」では大須演芸場での小話で、興行中は紙きりの道具や師匠方の着物をまもる荷物番として前座さんが寝泊まりしていたという楽屋生活について話をしていました。普段知ることのできない落語家さんの生活が垣間見えて、興味深かったです。江戸落語特有の言葉遣い(例:小痴楽師匠のことをやっこさんと呼ぶ)と動作をする(例:一杯ひっかけるときにおちょこをもつような動作をする)小助六師匠の語りぶりから、落語の世界へゆっくりと引き込まれていきました。


本題のあらすじをちょこっと。江戸時代、東京のとある小さな居酒屋。ある日、常連客の八百屋の爺さんが店に来て、いつものように「もう半分ください」と言いながら何杯も飲んで帰りました。その後、酒屋の亭主が爺さんの座っていた場所を見ると、50両という大金の入った風呂敷包みが忘れられていました。正直な亭主は妻に相談し、爺さんに返そうとしますが、欲深い妻からお金をいただいてしまおうと説得されてしまいます。爺さんが戻ってきた時、妻はそ知らぬふり、亭主も仕方なく同調します。絶望した爺さんは、その金は娘が身を売って作ってくれた大切な金だったと明かしますが、返してくれるわけもなく、お爺さんは橋から川に身を投げてしまいます。その後、妻が男の子を産みますが、この赤ちゃんは歯が生えていて白髪がある、あのお爺さんに似ているという不気味な特徴を持っていました。さらに、夜中になると起き出して、行灯の油を舐めるという奇妙な行動をするのです。


基本的に優しそうな細い目つきで演じる小助六師匠ですが、「ここぞ!」という場面では目をカッ!と開いて、声のトーンや間の取り方も変化して注目を集めます。小さな居酒屋の雰囲気の細かい描写から始まり、ふすまの間を表現する動きや、夜中の2時から4時を示す「八つ刻」頃の様子を伝える技も絶妙で、その場の不気味な雰囲気がじわじわと伝わってきました。また、落語の醍醐味のひとつである手ぬぐいの使い方も見事で、手ぬぐいの存在感を再認識しました。手ぬぐい一枚で紐付きの長財布を表現する様子をみて、「あれ、この手ぬぐいに紐ついていたっけ?」と思わず目を疑ってしまいました。

人柄は良いけれど、どこか困っていそうな、どこかだらしないような八百屋のお爺さんの様子が印象的でした。お酒に逃げる姿に、人生のどうしようもない部分を感じずにはいられません。実は娘が身を売って作った大切なお金だったという噺の展開にも驚かされ、お爺さんの絶望感が伝わってきて、現実から目を背けたくなる気持ちがよく伝わってきました。最後の怪奇現象の描写は、それまでの日常的な描写とのコントラストが効いていて、ゾクゾクさせられました。


〇蜃気楼龍玉師匠「牡丹灯籠〜栗橋宿〜」

龍玉師匠はマクラなしで本題に入りました。羽織を脱ぐ所作の一つひとつが非常に丁寧で美しく、古典落語の世界へすっと誘われました。


あらすじをちょこっと。萩原新三郎が亡くなった後、伴蔵とお峰の夫婦は栗橋に移り住みます。親戚の馬方・久蔵の助けを借りて家を買い、「荒物関口屋」という店を開きます。安さが評判となり、店は繁盛し奉公人を雇うまでになります。しかし、伴蔵は贅沢な暮らしを始め、良い服を着るようになります。一方、お峰は質素な木綿の着物で通し、仕事に励みます。ある日、伴蔵は久蔵と一緒に旅籠「笹屋」に行きます。そこで「お国」という美しい女性と出会い、彼女に惹かれていきます。お国には複雑な過去があり、伴蔵は彼女と関係を持つようになります。お峰はこの関係に気づき、久蔵から真相を聞き出した後に伴蔵を問い詰めます。激しい夫婦喧嘩の末、二人は和解します。その後、祭りから帰る道中、夜11時頃、伴蔵は土手下に埋めておいた「海音如来」という仏像を掘り出します。そして突然、お峰の隙を見て背後から刀で斬りつけ、殺害してしまいます。


冒頭から安定感のある口調とトーンで物語を紡ぎ出す龍玉師匠。特に印象的だったのは、お峰さんの心情を表現する背中の演技です。つらい気持ち、情けない気持ち、やるせない気持ち、こらえる気持ち等色んな感情が背中から伝わってきました。

最後のお峰さんを斬りつけるシーンでは、台詞無しナレーションのみの淡々とした描写で逆に恐ろしさを際立たせていました。「もう半分」と比較すると、この噺には最初から不穏な空気が漂っていました。新三郎の死という背景があるからか、夫婦の関係にも緊張感があり、単なる夫婦喧嘩ではない、より複雑で深いドラマが展開されていると、龍玉師匠の語りから感じました。結末の残酷さと唐突さに衝撃を受けましたが、それまでの緊張感の積み重ねがこの衝撃を更に増幅させていたように思います。

「もう半分」では日常から怪奇現象へと徐々に移行していくのに対し、「牡丹灯籠」では人間の業の深さそのものが恐怖の源泉となっていました。どちらも夏の夜にぴったりの心揺さぶられる怖い怖い怪談話でした。落語ってやっぱり面白い!

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