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渋谷の街の変化を見続けてきた写真家 佐藤豊さんに聞く、Bunkamura、渋谷駅前、円山町、宇田川、代々木公園などの、驚かずにはいられない今昔。

「渋谷隣人祭り」2016年 4月 5日(火)11:15~12:00放送

【ゲスト】佐藤 豊さん(写真家)

渋谷のまちでいろいろな地域の活動に取り組む人をご紹介する「渋谷隣人祭り」の記念すべき第1回は、渋谷の長い歴史をどこまでも深くご存じの神泉円山町の佐藤豊(さとうゆたか)さんに来ていただきました。今日はどうもありがとうございます。

佐藤:お久しぶりです。お元気そうでよかったです。

―― 佐藤さんと実はもう10年以上前でしょうか、渋谷区で『シブヤミライプロジェクト委員会』という委員会があって、渋谷の中で新しい企画を考えていこうという企画があったときに、ご一緒させていただきました。

そのときにも、渋谷の歴史をずっと眺めてこられているということを、委員会の終わったあとにお酒を飲みながら、じっくりうかがったときに本当に佐藤さんがいろんなことをご存知で、舌を巻いたのを覚えています。佐藤さんは1951年、渋谷で生まれられたそうですね。

佐藤:代々、曽祖父の時から渋谷生まれ、渋谷育ちですから、愛着が多分、普通の人よりは強く、ふるさと愛というかを、持ってますね。

―― 渋谷育ち。かっこいいですね。小学校も中学校もずっと渋谷ですか。

佐藤:地元の大向小学校、松濤中学です。

―― 大向小学校というのは、いまはどこにありますか?

佐藤:今は3つの小学校が統合されまして、神南小学校という小学校になっています。大向小学校は、今の東急本店のところにありました。みなさん信じられないと言うんですが、Bunkamuraが昔、小学校だったんです。

―― 中学校は松濤中学校で、そのあと、写真家になられたんですね。

佐藤:商業写真の仕事をしていました。うちが古かったものですから、父も写真が好きでした。実家は弘法湯という、江戸時代からあった、お風呂屋(銭湯)と神泉館という料理旅館を経営していました。料理旅館の方に写真室もありまして。その写真室を叔父が担当していて、そこで父が写真を覚えたそうです。

そういう環境の中で古い写真が自宅にはありました。ひとよりは早くパソコンというのに興味をもちまして。スキャナーというのが出て、すぐだまされて買いました。(笑)。

―― だまされた?(笑)

佐藤:最初データ保存がフロッピーで大変でしたが、永久に保存できる媒体だという話でしたので、昔の写真をこつこつとスキャンして保存していました。

そうした作業を進めていることが人に知られるようになり、集めた写真のアーカイブを聞かれるようになりました。商業写真の仕事は仕事として、こちらはライフワークとしてやるという形で今に至っています。

―― 佐藤さんが撮りためた写真をスキャンされた数はどれくらいありますか。

佐藤:私自身が撮った物もありますけど、生まれる前の写真とか、数は限りなくありますね。

最初の頃は、ピックアップして作業していたんですよ。昔は作業に時間がかかるんで。でも、だんだんパソコンの能力が上がってきてですね。これは全部やらなきゃいかんと思い始めまして、今はできるだけ、カットがあるものはスキャンするように努力はしています。そんなわけで詳しい数は数えられないですね。

―― パソコンの性能が上がれば上がるほど、佐藤さんのアーカイブが豊かになってくるんですね。

佐藤:やはり個人が必要とするものと、みなさんが求めるものって、ちょっと違う部分があるんです。できれば皆さんが求めているものにこたえてあげたいというサービス精神が、私の場合ありますね、まあ、出来る範囲ですが。

―― 今日、佐藤さんにお持ちいただいた冊子があります。この冊子、『地図中心』という雑誌ですね。

佐藤:2月号で渋谷特集を組みました。

―― Shibuya。シブヤ。渋谷。시부야・・・。

いろんな言語で渋谷という言葉を書かれているんですけれど、この中にもたくさんの昔の写真があるわけですね。ここにある写真を、ちょっといくつかご紹介をしていただいてもいいですか?

佐藤:まず、表紙の大きい写真、これは私が撮ったものです。写真をラジオで伝えるのはなかなか失礼な話ですけど(笑)、下の小さい写真、109の前の、昔と今なんです。昔、ここの場所を、ホオバ(高下駄)で歩いてる人がいるんですね。もう一方の写真は今流行のハイヒール。

ホオバの男性はボンタンといいましてね、太いズボンを穿いていますね。女性は今風の何ていうか魅力的なミニスカート。これ、ともに109前の交差点ですけど、厚底のものを履くっていうのは渋谷が発祥じゃないですか?っていう、ギャグですけど。

あと、この上の俯瞰の写真はですね、高い建物の上から真冬に撮っているんですよ。山並みまで実は後ろの方に見えています。

渋谷で、夕焼けで、山並みまで入れて撮って、なおかつスクランブルを入れた夕景というのは、なかなか撮れないですよ。撮影時、真冬の夕方で死にそうに寒かったです。

―― これは東急東横店から撮った写真ですか?

佐藤:これは、今はもう解体が入っちゃっているところの上の東館と西館の間あたりですね。そこで撮影させてもらいました。

ヒカリエのオープンの時にも、『東京人』という雑誌で渋谷特集を組みまして、その表紙もそこから撮っています。

―― これは、今はもう撮れない写真ですね。

佐藤:この場所は、現在はもう解体工事が進んでいますので、登れないですね。

―― 中をパラパラめくりますと、本当に昔の写真から、最近の写真までいろいろあるわけなんですが。

佐藤:写真で過去と現在を比較できるようにしてあるんですよ。

私は『渋谷の記憶』という写真集を行政にいたときに数冊出しまして、その写真集も今と昔を比較出来る、というのがみそでした。渋谷を勉強したいという人たちにとって調べたり研究する時の、ネタ本を作ってあげたいと思い、作りました。

僕としては、お父さん、お母さんとお子さん、または祖父、祖母とお孫さんとかでその本を見て、話をしてもらいたかったんですが、飛びついたのはマスコミでした。

―― この写真、同じ場所だったりするって事ですよね。

佐藤:そうですね。ですから撮れるところと撮れないところがあるんです。やっぱり土地を知っていないと、なかなかこれは撮れないなっていうのは自分がこの作業を進める中でいつも感じますね。

あと、その場所の空気ってあるんですよ。空気そのものを感じると、とても作業がしやすいですね。空気の変わり方っていうのが、その場に行くと、こういうふうに変わったんだなというのが生でわかるんですね。

古い写真を持って現場に行って大学の若い学生さんなども指導してるんですけど、そこで、そう写真と現場を見比べて現実を見ると、初めて「ああ、そうですね」と。感覚からわかります。ですからやっぱりライブ感というのは大事なんですよね。

―― 空気の変わり方っていうのは、佐藤さんの場合、例えばどこの場所でどう感じられたんでしょう?

佐藤:たとえばさっきの表紙にありました109の前のスクランブル。

小さいスクランブルですけど、あそこなんかでも古いものと比較してみると、空の広さとかが、建物が高くなると、一気になくなるんですよ、空間が。

現場に行って見上げてみると、宮益坂もそうですけど、昔の宮益の方が、広く感じるんですよ。実は狭いんですよ、昔のほうが。今の方が場所によってはセットバックしてますからね。

だけど、そういうのも、空気を、直接感じるんですよね。ああ、こんなに広かったのになぁとか、それなのになんで今は、こんなに狭いんだ、とか。

―― 確かにこの写真を見ると、渋谷の空が広く感じます。

佐藤:昔は本当になんていうか、駅前が広場って感じでしたね。子どもだったということもありますが。

―― 確かに渋谷の駅前、これだけターミナル駅の前で広場が開けているところは、東京じゅう探しても意外と少ないですよね。

佐藤:そうですね。戦後20年代に、駅前広場を広げたほうがいいという計画があって、戦後は闇市なんかもあったんですけども、奇麗に整備して、将来に向けて、やっぱり駅前を広げよう、これから駅前広場が必要だと。そういうのは先見の明があったと思いますね。

―― そういう歴史というか経緯があって、広場が生まれているということなんですか。

佐藤:私の親戚もその時、お手伝いをしていた関係から話を聞いています。

―― 今の渋谷の地形って、見慣れている人からすると、もう、もともとあったかのように思いますけれども、歴史を知ってみると、今のハチ公前広場ですとか、ある時代においてはすごく革新的というか、チャレンジをしてこの街がつくられているということなんでしょうか。

佐藤:狭い範囲のところに、要するに川の上に、デパートを建てたというところから、もう考え方が違いますよね。

―― 川の上にデパート。どのデパートのことですか。

佐藤:東急デパートの東館。先日解体したところですね。あれがまさに最初の昭和9年に作られた渋谷のキーポイントではないでしょうか。あれが最初のデパートですから。

―― ここが渋谷で最初のデパートであって。それで、そこは川の上に建てたという。センター街の下も宇田川が流れていますし。それから渋谷川が明治通りのほうから流れている。それは、東横店あたりが、川が合流する場所なんですかね。

佐藤:ちょうど今でいうと、このヒカリエの前の方です。そこのあたりがちょうど「溜まり」って言って、宇田川が渋谷川に入ってくる場所なので、合流するところなんです。

ヒカリエのところに、昔は渋谷小学校っていう小学校がありまして、ちょうどその小学校が写っている古い写真があるんですが。写真を見ると、まさに川べりの小学校でしたしね。

―― 川べりの小学校? 渋谷駅前に小学校があったんですか!?

佐藤:つい100年前の話で。劇的ですね。

―― 佐藤さんが通われていた大向小学校というのはどういう小学校でしょうか。

佐藤:大向小学校っていうのは今の東急本店、Bunkamuraのところにありました。やはりあそこも裏に、小川が流れていて。松濤っていう地名は、地元で生産されていた松濤茶と言うお茶に由来する名前です。松濤公園というのが今もあるんですよ。

そこに湧水が湧いてまして、その流れが学校の裏を小川のようになって流れていてその先の、ちょうど今でいうセンター街につながるところに、宇田川が流れているんです。付近に昔は松濤橋というのがあって、その少し下に大向橋がありました。

宇田川は、いろんな小さな小川が繋がって渋谷川につながっていくんですね。その宇田川の上流が河骨川(こうほねがわ)といって、春の小川。渋谷川は春の小川ではないんですよ。宇田川の上流の河骨川が春の小川です。よく春の小川は渋谷川の上流と誤解されているんですが、宇田川の上流です。

―― 今はもう、全然見えないところが多いですもんね。

佐藤:春の小川の碑がありますよ、代々木公園の裏に。散策してもらうにはなかなかいいコースなんですけど。

―― 今、大向橋って橋の名前も出てきましたね。つまり、渋谷の中にそういう川があって、橋があって、そういったところを日々行き来するようなそういう街だったわけですね。

佐藤:そうですね。松濤橋とか深町橋とか、橋はたくさん、川にかかっていますから、大向橋もいろいろと謂れがあるんです。

一つは、富士講っていうのが今の百軒店のところ、道玄坂の途中にありまして、そこに富士講の講元の方がいらっしゃいました。

―― 富士講というのは、富士山にお参りに行くために皆でお金を出し合うというものですね。

佐藤:はい。そういう昔グループがあったんですよ。

先ほど話題に出た謂れの一つに、この大向橋にもこんな謂れがあるんです。昔、百軒店のあたりに富士講の講元の中で大きな講元がありまして、そこの講元に不幸があたったとき、江戸一円の講中関係者が集まり総講で葬儀をします。そのときに棺を担いだ蓮台を活用して、大向橋を毎回、掛け替えていたそうです。そこの架け替えていた橋の名前が“おむかえ橋”なんですよ。そこの橋の名前が時の流れの中で変わって“大向”になったっていう、そういう言い伝えがあるんです。

あそこにちょうど富士講の講元のお墓があったそうで、語り継がれてそういう話が今も残っているんです。

―― 知らなかったですね。地名というのが、例えば渋谷、このスタジオは渋谷三丁目です。いまの地名として町名に残っていない地名として、大向という町があったのですね。小学校の名前とか、あと原宿という駅もそうですよね。

佐藤:そうですね、旧町名ですね。

―― 原宿町という町はない。ですけど、原宿という駅はある。住所として残っていないんですけど昔の地名はある。他に何かありますか?

佐藤:町会の名前が昔の名前だったりとか、そういうのは結構ありますよね。ですから原宿付近は今は神宮前となっています。原宿から渋谷に向かう渋谷川の裏のところ昔は隠田(おんでん)といって、今も隠田神社っていうのがあって、隠田通り商店街っていうのが現在もあります。

―― なんで隠田っていうですか。

佐藤:隠し田(かくしでん)という……子どもの頃は忍者がいたんだとか言ってましたけどね。(笑)諸説はいろいろあります。

―― 読みづらいですよね。隠れている田んぼで隠田(おんでん)っていう。でもまずその田んぼっていう字が出てくること自体、今からするとちょっとこう想像がつきづらいわけですけど。

佐藤:渋谷は川が谷を作って、地形を形成しているので、大昔の地図が今3Dで作られているんですが、それを見ると渋谷駅付近は全部海の底になっています。

―― ええ?

佐藤:渋谷には縄文人が住んでいた跡が残ってますね。この近所にも。猿楽町には古墳とかも残っていますし、家の近所にも円山遺跡があり、縄文人の跡があります。

―― 遺跡があるんですか? 知りませんでした。

佐藤:中沢新一さんが見に来て喜んでました。『アースダイバー』という本を書かれていて。

―― 中沢新一さん! 町をママチャリで走りながら。

佐藤:黄色のママチャリでうちに来ました(笑)。

―― ママチャリで走ることによって地形がちょっと上がったり下がったりがすごくよくわかるという。

佐藤:自転車を漕ぐとわかりますよね。

―― 上りだったり、下りだったり。

佐藤:もう渋谷は本当に、若いときは自転車でいいんですけど、今は電動自転車でないともたないです。

―― では、もう少し他の写真を見てみましょうか。この中で何か佐藤さん、これはちょっとおもしろいというのがあれば。

佐藤:ここがちょうど、さっき言いました、東急の今のヒカリエの前の部分ですね。

―― 大きい川ですね。

佐藤:ここはですね、「溜まり」なんでちょっと大きく見えますけども、この右側に小学校が見えるでしょう。子どもたちがいるでしょう。これが渋谷小学校なんですよ。この橋がかかっている部分は、今は自転車置き場になっている場所です。のんべえ横丁ってありますよね。あそこの裏側がこの橋の部分。

あと面白いのがこれ、東急百貨店の東横店を建設しているとこですね。

―― これは工事中の様子ですか。手前にひとり人がいて麦わら帽みたいなのをかぶっています。

佐藤:この川がまさに、今、暗渠になっている渋谷川。

この先に工事中の東横東館が見えます。これがさっき話に出ました。昭和9年に渋谷に初めて出来たデパートの建設中の写真です。

―― ということは、渋谷川がこういう暗渠になったのは東急東横店が出来たときなんですか。

佐藤:いいえ、この場所が暗渠になったのは戦後の話なんですよ。

あそこが暗渠になったのは、私がいくつだろう、大学生のときですよね。オリンピックのかなりあとです。オリンピックの時に暗渠になったのは・・・さっきの隠田のほうが先になりましたね。なんかあっという間に暗渠になっていって、今、「裏原宿」って言われてますけど、あそこが蓋されていって、その後、子どもの遊具施設みたいなものが置かれて。

―― それこそ先ほど言われた、空気が変わるというか、そういうことを感じられたんじゃないかと思うんですけど。

佐藤:そうですね。街の匂いが変わるんですよね。何というんですかね。これはね、やっぱりそこに行かないとわからないですね。

246の工事が始まった時、246っていう大きな道路は、そう、ちょうど246の工事中、私が通っていた幼稚園が工事現場の側だったんで、毎日工事を見ていたんです。子どもでしたから工事を見ているのが好きだったんで、休み時間というと、ずっとダンプカーを見ていました。

―― 246自体は、もともとは細い道だったんですか?

佐藤:あのような広い道でなくて、それがどんどん工事が進んで、僕らの頃は50m道路って言っていたんですが。そこに工事の車が沢山来るんですよ。

ダンプカーって後ろが上がるじゃないですか。子どもですから、初めてそこでダンプカーを見たので、なんかものすごくその光景、忘れられない印象があるんですよ。

―― もともとあそこは、住宅があったんですか?

佐藤:住宅がありました。渋谷駅近くもそうですけど、最近解体した東急プラザがあった場所、あの付近は全部、立ち退きでした。昔はあの一帯、町会が一つだったんですよ。桜丘と今の中央街というところは。

―― 繋がっていたんですか?

佐藤:246が間を分断して、2つの町会に分かれたっていうことです。昔は一つで、お祭りも。お神輿も一つで。だから、町会を2つに分けるとき、お神輿も分けて、桜丘は山車をとって、中央街はお神輿を取ったっていうことがありました。

―― お神輿を分ける・・・。

佐藤:町会を分けるということは、そういうようなことをしなきゃいけないんです。いろんな歴史があります。

―― そうですね。もともと渋谷は、あまり都会ってわけではなかったんですか? 都会は都会なんですか?

佐藤:江戸時代は、渋谷は市中外ですから田舎なんです。朱引き線というのが今の明治通りのあたりなので、明治通りから外はもう田舎なんですよ。郊外ともいえるかな。

―― あと、佐藤さんがいらっしゃったこの街は、花街というか、子どもの育つ環境としてどうだったのかわからないんですけど。

佐藤:いろいろ誤解があるんですけど、花街と色街がありまして、花街というのは芸者さんの芸を見て一席楽しむ。色街というのは、非常に難しい表現があるんですけども・・・。明治の18年、家が弘法湯と併設して料理旅館の神泉館を開業したことで、神泉円山地域に次々に待合いなどが開業してどんどん花街が広がっていくんですね。そして明治後期には道玄坂の下のほうまで広がっていくんですけど、大きくなるにつれ、そういう色街に近いものも出来てくるんですよ。

その頃、明治の終わり大正の初め、円山に荒木山っていう山がありまして、私の曾祖父が組合長となり、三業っていうんですけども、国の指定を受けて荒木山に花街の指定地許可を取ります。そこを整地して、正規のお店はそこに皆集まるという形をつくります。

その時にちょっとそういう色街の色彩が強い物は別のところに移動したということが記録にも残っていますし、子どもの頃に聞かされました。

ですからそこの事など含めて、ちょっと誤解されちゃうと難しいんですね、当時の法と今の法では違いますから、やはり。

花街文化の芸って、そう簡単には、芸者さんも踊りとか一つとっても習得するのはたいへんです。町の歴史のなかでそういうところがこの街のベースにあるので、実は渋谷の中にあって、そんな経緯から円山だけが和の文化を持ってるんですよ。

―― 和の文化ですか。

佐藤:ようするに日本的なものが残る空気。

だからそこも空気がちょっと変わってきます。路地や黒塀、芸者階段とか、まだ一部その臭いは残ってますから。あと荒木山の道は花街の区画整理された土地なので、碁盤の目のような道路になっているんです。

―― 円山町ですね。なかなか歩いていても気づきづらいところかもしれません。

佐藤:実は以前、円山の中心を通る道には、「三業通り」という愛称がつけられていました。道玄坂上の交番から、旧山手通りの方に抜ける道です。

この道、昔は、甲州から江戸に出る街道で滝坂道という街道です。山手通りを超えて行くと、甲州街道のつつじヶ丘、仙川のほうにずっと繋がっています。この道の道玄坂から入ってすぐの所に、以前は検番(けんばん)というのがあったんですよ。芸者さんたちが練習する場所と仕事のマネージメントをしてくれるところ、今風に言えば稽古場とプロダクション事務所と言った感じです。

―― 検番。

佐藤:これが、10年以上前に三業も検番も、廃止になってしましたんで、通りの愛称名だった三業通りっていう名前もなくなってしまいました。

そこで昨年ですね、地域の要望がありまして、滝坂道という正式な名前はありますけども、地域内での新しいニックネーム的なものを道につけたらどうか、という話が持ち上がりました。三業通りの通っている道は地元の3町会にまたがっているんです。

今回その3町会で話し合いまして、じゃ、つけよう、と公募をしましてね、700近く応募が集まりました。

決まるまで半年以上かかったんですけども審査の結果『裏渋谷通り』という名前に決定しました。

―― 『裏渋谷通り』

佐藤:個人的には元渋谷とかがよかったんですけど(笑)。

円山は渋谷駅を中心とすると裏側ですよね。で、このスタジオのあるあたりは、南渋谷ですよね位置的に言うと。スタジオの前の上の方は東渋谷ですね。裏渋谷通りは応募数も一番多かったですし、委員の賛成も一番でしたので、決定して現在は名前をPRしています。

―― 「裏渋谷」。確かに最近そういう言い方をするようになってきているかもしれないですね。

今、円山町は和の雰囲気という話をされたんですけど、佐藤さんの今の話ですと円山町のあたりだけ和の雰囲気で、他のところはそうでもなかったということですか。

佐藤:米軍のワシントンハイツですよね。その匂いは原宿にありますよね。原宿はアメリカっぽかったですね。米軍のワシントンハイツは将校レベルの人達の住宅だったんでかなりランクの高い兵隊さん達が暮らしていたと聞いています。

―― ワシントンハイツについてもご紹介いただいていいですか。

佐藤:ワシントンハイツは、私が中学までありまして、フェンスでずっと囲われていました。中が本当にグリーンの芝生で、当時、アメリカのテレビドラマがあったんですけど、あれをそのまま描いたような街がそこにあって、僕らが逆にフェンスで囲まれているんじゃないかって、子どもながらに思ってましたね。

野球のユニフォームも、彼らは松井が着ているようなユニフォームを着てやっていて。僕ら普通の服でして、グローブだけは持っているんですけど。

子ども同士なので、フェンス越しでも仲は良くて、フェンス越しで話していると「来ないか」って言われたりすることもあって、入れてくれたりすることもあったんですよ。

―― 入れたんですか?

佐藤:子ども同士なので入れてくれたりすることもあるんですよ。あとは何かイベントのあるときは、入れたりするんですけどね。中は本当に広くて夢のようでした。

子どもでしたからね、コーラとかそういうのも、あそこで初めて飲んだ人がいるんじゃないですか、僕らの世代だと。

―― 何世帯ぐらいあったんですか?

佐藤:記録では827戸の住宅があったと書かれています。実はこの本に、戦後すぐの焼け野原の渋谷を偵察で空撮した写真が出ているんですが、ワシントンハイツだけはあっという間に出来ているんですよ。この辺駅周辺はまだ焼け野原の状況ですよ。仕事でその空撮の写真地図を見たときに、当時のアメリカのすごさを思い出しましたね。

建物の一部が出ていると思いますけど、ワシントンハイツの入り口のところの写真があると思うんですよ。ここにMPが立ってましてね。普通の人は入れないんですけど、なんていうんですか。異国の匂いが、まさにそこからしていましたね。入ると中には外車がいっぱいあるんですよ、所ジョージさんたちが喜びそうな外車が。

―― 先ほど一面に芝生って言われましたけど、その代々木公園の今の芝生広場がここだったってことではないですよね?

佐藤:代々木公園・・・。私はオリンピックの時ちょうどボーイスカウトをやっていましてね。オリンピックの国旗を掲揚するするボランティアをやっていました。

代々木公園、よく覚えているんですけど、オリンピックが終わった跡は、建物は解体して木なども結構刈っちゃったんです。何もかもなくなっちゃって。大会終了後はハゲ山みたいになっちゃってたんですよ。

―― 昔は、森のような場所だったのではないのですか。

佐藤:いえ、ようするにワシントンハイツの建物を壊しちゃったんです。ワシントンハイツは返還後一度、東京オリンピックの選手村になったんです。

選手村として一部ワシントンハイツの建物を改装して、活用されたんです。大会後、その建物を含めてほとんど全部を解体したので、あそこ、今、森みたいになっていますけど、先ほども話しましたようにその後一時、ハゲ山みたいになっていたんですよ。

その時期の写真があるんですけど。

やっぱり50年経つとあれだけ緑っていうのはすごい成長をしますね。

今、緑は明治神宮と変わりないですよね。何か走馬灯のように色々あそこに行くたびに思い出しますね。ハイツ内にプールがあったりとかね、そこの家族というか、住んでいる人たちの様子。当時の町場の暮らしとは全く違い別天地でした。

ハイツの方達がとってもいい人達で、交流を深めるイベントなんかもあったんですよ。中で何かイベントがある時に参加できるっていうのもあって。

―― もうそれは大人も子どももみんなが参加できるんですか?

佐藤:子どもを招待するみたいなのですね。教会なんかもありました。そのへんはよきアメリカという時代でしたね。

―― 言葉とかは?まだ小学生、中学生頃だったと思うんですけど。

佐藤:小学校上級や中学生くらいだと、ませた女の子がいて、けっこう英語勉強していて、今思えば、片言ですが英語を喋れるんですよね。やっぱりクラスにいるんですよねぇ。英語勉強してる子が。そういう子と一緒になって。でも子ども同士ですから。だいたいで通じちゃうんですよね。

―― 片や円山町の和の伝統というかそういったものがある一方で、もう目の前にアメリカみたいなところがあるという。その狭間でずっと幼少期というか、少年時代を過ごされたということになるんですね。

佐藤:そう、あと渋谷駅付近もまた全然違いましたからね。センター街というところもまだ今みたいにできてなかったですし。

―― センター街が出来てなかったんですか?

佐藤:もうなんていうか、全然今のようではないです。裏路地はゴムボールですが子どもが野球できるような場所でしたから。

―― センター街で野球ができる!

佐藤:三角ベースを小学校の時はよくやっていましたからね。今の西武のAB館の通りの裏に仲のいい同級生がいて、家はペンキ屋さんなんですけど、その当時は看板屋さんもやっていて看板の絵も描いていましたね。その子の家の前でよく綱引きや三角ベースを近所に住むうなぎ屋の子と一緒にやりました。当時は子どもが沢山いましたから、付近には同級生が沢山いましたね。

―― すごい。

佐藤:ついこの間ですけどね。私にとっては。

―― そうやって街の変化を本当に肌で感じて、先ほども原宿はワシントンハイツの匂いがしますとおっしゃっていましたが、ここ最近佐藤さんが感じる街の匂いは、またどうなんでしょうか。

今、駅の周りとかすごい開発が進められ、また、渋谷の新しいモードというか、ステージに変わってこうとしているのかなと思うんですけど。

佐藤:渋谷生まれの私としてはですね、実は物心ついたころからずっと渋谷は工事しているんですよ。ですから、今回大工事と言うんですけども、また「工事してる」ぐらいしか思わないんですよ、これ。

―― そうですか(笑)。

佐藤:建物が高くはなっているんですけど、基本的に何しろ渋谷は工事しっぱなしですから。生まれた時からハチ公広場を広げて西館を作っていましたからね。

―― 終わらないんですね。

佐藤:オリンピックのときも、ずっと公園通りの上で工事をしていて。駅の側は立体交差の道路工事もあったし、なんていうんだろう。工事しっぱなしみたいな状況ですよね。はい。

―― 佐藤さんは、その町で確かに生活をして、お店もやってらっしゃいますよね。

佐藤:お店もやっています。もう弘法湯はやめてしまったので、何か地域とつながるものと思いまして、写真の仕事とは別に35歳の時、『ラ・フォンテーヌ』という喫茶店をはじめたんです。小さいんですが。地域間交流みたいなものをと思いやっていますね。

―― 神泉なので、フォンテーヌで。

佐藤:泉というフランス語で。

佐藤:神泉という名前はですね、うちの弘法湯に湧いていた水の名前なんです。湧いていた水の名前が「神泉水」という水の名前で、それが地名の元になっています。

―― 地名の元になっているんですか? まったく存じ上げませんでした。

佐藤:子どもの頃はよくおばさんとかがヤカンを持って水もらいに来ていましたよ。今でいうミネラルウオーターなんですかね。あれ、なんかもったいなかったですね(笑)。

―― 今は全然ないんですか。

佐藤:今、環境もいろいろ変わって、高層マンションが建っちゃたんで。

―― 『カフェ・ラ・フォンテーヌ』で、地域活動などもされているという話なんですけど、少しその辺も。

佐藤:さっきお話したまちづくりに関して、和の文化を活用したまちづくりをできないかなと。今、渋谷駅に関してはハードで展開していますよね。私たちが考えているのは、今、ソフトの展開で何とかできないかっていうのをやっています。

そこが外国人の女性専用のカプセルホテルを神泉で作りました。女性であれば外国人でなくてもいいんですけど、そこでは、着物を一式貸借りられ着付けもしてもらえて、円山を歩けるという企画があります。

残念ながらまだ推薦出来るコースが出来ていないんですが、円山の中を回遊できる。坂道や階段で下駄の音が聞けますよ。そういうものも、実はこれから円山の中で作っていったらと。女性同士でお店に行けば女子会も出来ますよね。

今まで女性専用のカプセルホテルって、なかなかなかったんですよね。

お風呂もね、富士山がタイルで貼ってあって、ヒノキのお風呂なんかもあるんです。ただ文化が違いますから、どういうふうに説明するのかな、と、心配ですが。

近年は東急さんもホテルをひとつ、円山の中に建設しています。そこは結構外国人の方が多くいらっしゃっていて。ですから神泉の駅前にもスマホを持った外国の方がウロウロしていてですね。道に迷われて、どっちが・・・と、私も質問されてカタコトの英語で。

昔は円山というとラブホテルが有名でしたが、今はライブハウスが有名になっています。個人的にはラブホテルも面白いと思うんですが、これからは国の観光事業の推進などもあって円山もラブホテルから民泊やシェアハウスまた渋谷にオフィスビルが増えればビジネスホテルなど宿泊系産業も色々変わってくるんでしょうね。

地域としては、先ほどお話しました、これから新しいまちづくり、ハードだけじゃなく、ソフトを使った展開をやりたいなっていうふうに思っています。円山の土地が持つ癒し系の力が今後どんな風に進むか楽しみです。

―― 佐藤さんは、たしか渋谷ハチ公口にある、青ガエル・・・あれにも、佐藤さんが関わっているそうですね。

佐藤:はい。最初ですね、あの企画は、民間交番を作りたいという話だったんです。

民間交番というネーミングはちょっと誤解を生みそうで問題だと思ったんですけども。渋谷でNPOとかボランティアで活動している人たちのベースになるステーションということですから企画は良いと思いました。

しかし、公共の場所なので固定した建物は作れないと、3年か4年この計画が頓挫していたんです。当時具体的な対応策がなく話しが宙に浮いていて。担当所管の管理職の方が、僕のとこに相談にみえまして、ひとつ考えてほしいと。

はいぃ???……みたいな。

―― (笑)

佐藤:何か作るにしても固定しては行けないと言う条件のなかで色々と考えました、

そんななかで渋谷の歴史的な流れを考えていた時に浮かんだのが、渋谷はターミナルで発展して来た町じゃないですか。ターミナルで出来た町なんだから、ここは電車を持ってこよう、と。国鉄(JR)以外で最初に渋谷に来た電車はなんだ? と、玉電だ。

玉電は多摩川から砂利を運ぶのが目的で作られたのが電車の始まりなんです、この多摩川から運ばれて来た砂利が東京の街のベースを作ったそうです。その後、人も運ぶようになって。今の地下鉄「田園都市線」の前身ですね。世田谷方面に繋がっています。

昔、その玉電に200系というかっこいい車体の電車があったんですよ。玉電は路面電車だから乗車口が低いじゃないですか、すぐ乗れるでしょ。おまけに車体が小さいから軽いんですよ。この電車を持って来てはどうかという企画書をちょっと書きましてね。

東急さんに相談しましたら「いいですよ」って。またずいぶん素直にいいよって言うな・・・と思いながら。

その電車が2両、たまたまありましてね。1両それをくれるという話になったんですけども、その車両が博物館に入っていて、博物館から車両を出すのはそちらで出してくださいねって先方に言われて、しかしそこから出すのはちょっと無理でしょうと。

そうこうしているうちに…、電車の古い車両、実はいろいろあるんですよと言う話があって、金沢八景に東急車輛という車両工場があるんですけど、そこに何車両かあります、と。ぜひ一度見に来てください、東横線のもあるんですよ、というんですよ。

最初、私は東横線は大きいからいらないと言ったんですよ。重いし。

でも先方がとにかく一度見に来てくれという話で、役所の管理職の人が「あんなに言っているから、一度見に行きましょうよ」と。

誘われて金沢八景まで行ったときに、ブルーシートってありますよね、あれがかかっている車両が置いてあったんですよ。それをはずして見た時に、あまりに哀れだったんですね。いま置いてある5000系の青ガエルですが。外装の色も焼けて外観も朽ち果ててボロボロで。これ、見に来る人がいるんですか、って聞いたら「年に2人くらいですかね」って。たまたま、青ガエルの1号だったので会社の役員だった方が記念にとっておこうということで残っていたという話でした。

このあとどうなるんですかと聞いたらその役員の方も退職されたのでたぶんこのままだと「朽ち果ててしまうと思います」みたいなことを聞きまして、可哀想になりました。

おいおいって(笑)。

で、そのとき、悪魔のような囁きを受けましてね……。

「佐藤さん、電車小さくできますよって」

え? だってこれモノコック構造じゃないですかって。モノコックって卵の殻だから、割っちゃうと強度が落ちちゃうんですよ。

「今は技術が発達してですね、つないで小さくできますよ」って。

え〜? みたいな(笑)。

向こうもものすごく熱心だったので、ここで朽ち果ててしまうのは可哀想に感じまして、その後大変な苦労もあったんですが、レストア加工をして渋谷に持ってきたんです。

―― あれは、電車一両のサイズではなくて、ちょっと短くしてあると。

佐藤:その小さくする図面も最初は私が希望を、書きました。

これくらい、こうして、と。少々電車マニアでもあったんで。本来理想では、この後4台くらい持って来たかったんですよ。地下鉄も持って来て、井の頭も持って来て、渋谷駅の四方に一台ずつ持って来て。今、活動しているNPOの方とか、そういう人たちの渋谷での活動の場にと思ったんですけど、出来上がった途端、なんか民間交番から、モニュメントに変わってきましてね。その後、私の管理する関係じゃなくなってしまって。

―― それで、もともとの目的といいますか、民間交番、渋谷のハチ公前にはまさに普通の交番がありますよね。

ああいうものを置くというのは、どういうことだったんですか。

佐藤:例えば、ガーディアンエンジェルス。彼らは、街での防犯防災や美化活動また、道案内などを含め、安心安全の防犯パトロール活動を推進するNPOのボランティア組織です。

民間交番の機能には観光案内とか道案内そういうのももちろん相談に乗りますが、それらは民間交番の中の機能の一つなんです。民間交番というのが、名前がイマイチで、交番のお手伝いみたいに、どうしても思ってしまいますがこの企画の考えはもっと大きな物なんです。交番機能の中で民間がお手伝い出来るものであれば、もちろんお手伝いしますが、民間だからこそ出来ることもあると考えます。ですから、電車の活用に関して、もう1回基本ベースに戻って、使用方法を再考できればなって、いつも思っているんですけどね。

―― いいえ。でも何かこう待ち合わせ場所みたいなので使われていますからね。

佐藤:もっとキチンと考えれば有効な活用方法はあると思うのですが。

あと使用方法とは別ですが、現状だいぶ設置してから時間がたっていますので、外観を含め傷んできていますから、電車が好きな人たちを公募して、レストアっていうか、皆でいたんできた所にペンキ塗ったり掃除したりしてボランティアで電車補修など出来たらいいなと思っています。今後そういうのは立ち上げてくれる人たちのグループが出て来たら、嬉しいですね。

―― 佐藤さんの写真というのは、こういった形で雑誌等に使われることもありますが、

普段、ぜひ見せていただきたいとかですね、そう思った時というのはどうすればいいのかと。

佐藤:基本的には写真集を出していますし、メディアを通じて発表もしています。あと大学などで公開講座などがあります。そのときには写真できるだけ多くご覧に入れるよう対応しています。

―― それは写真を見るだけではなくて、今のような話を聞けるのですか。

佐藤:私の解説を聞きたいって人が実は多いんですよ。嵯峨さんもご存知だと思いますが、旧町名と古い写真をライブするというか、そう言うソフトを以前に作ったことがありまして、今もバージョンアップして手を加えていますが、それが今もですね、結構見たいという要望が来ます。

違うところでは“旧町名研究家”って言われているんですけどね。いつ誰がなったんだ? みたいな(笑)。

―― 旧町名研究家という肩書・・・。

佐藤:紹介時にですね、本来は写真家なんですが、こっちがびっくりします。

―― それだけ本当にいろんな旧町名とかその街の歴史をひとつずつ細かく、ご存知でいらっしゃるんですけれども。お店に行っても、時々佐藤さんは、いらっしゃるんですか。

佐藤:撮影の仕事がない時は、出来るだけ店にいるようにしています。メディアの人も、よく相談にいらっしゃるんで。事前に連絡頂ければ、出来る範囲で対応しています。

手が空いている時は、学生さんの相談にも乗りますし、アドバイスします。卒論を書きたいという人も時々いらっしゃるんですよ。東大の学生さんとか、本当に真面目で。

皆さん渋谷ファンで、ほとんど渋谷生まれじゃないんですよ。そこらへんも面白いですね。

―― 佐藤さんのカフェにも、ぜひ、足を運んでみていただければと思います。今日はたった45分ということで、本当に断片的にちょっとおうかがいするということだったんですけど、貴重なお話、ありがとうございました。

佐藤:番組頑張ってください。

⇒ この番組の放送内容を音声でお聞きいただけます。


【聞き手】嵯峨 生馬・佐藤 万葉子

【テキストライター】加藤 レイコさん

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