中学生のとき
レポートと課題に追われる日々からの束の間の休息。大学生活で2回目の夏休みに入りました。実に記事に手をつけるのは約半年ぶりであります。
小学生から陸上を始めて、特に他にやりたい事があったわけでもなかったので中学校でも陸上をする事になります。
春休みから練習に行き始め、4月の学校が始まる頃には部に馴染めていたような気がします。
中学生になってからは本格的に「陸上」をやる事に。ペース走にインターバル、今までジョギングだけしかしてこなかった僕にとっては初めの方は結構しんどかった記憶があります。同級生が男6人、女2人いましたが、その中では走れる方だったので一番上のグループで毎回走っていて最初の方は本当にきつかったです。
中学生最初の体力テストの1500mは忘れもしない5:21。腹痛に苦しめられ走り終わって熱が出ました。この時が山場でした。
その後、6月にあった中学選手権が初陣となり、ここで1500mを走り4分55秒で走り県で11番になりました。この時は同級生の女の子が2番になったこともあって、特に何の感情も湧きませんでした。
ちなみにこれが今のところ県レベルの大会で、最も上の順位をとった大会になります。
今見てみると上には、現在は関東の大学で箱根を目指して走っているようか同級生もいるので、このときは多分僕よりは練習してないだけだったんだろうなーと今となっては思います。
7月に通信陸上がありました。
ここでも1組目に入りますが棄権することになります。
理由は祖母が亡くなったからです。
当時学校に集合して乗り合わせで現地に行っていたため、朝5時30分くらいに学校に行って集合前に同級生と話している時に連絡が入り急いで帰って部活着のまま病院に行ったのを覚えています。毎年夏に映画「サマーウォーズ」が放送されると、この年の夏を思い出します。「夏」「祖母」という共通項や、亡くなった後の慌ただしい感じは映画を見るたびに思い出します。世界は救ってませんが。
話は逸れましたが、8月の終わりにはジュニアオリンピックがあり、6月の中学選手権、7月の通信、8月のジュニアオリンピック、この3つをトラックの主要な大会と僕は考えていました。
ジュニアオリンピックは2組目に降格することになりました。この時先輩から「2組目になったね。ドンマイ」と言われて1組目は速い人が走る組だということを何となく認識しました。(滑稽な事にその後1組目で走る事はありませんでした)
ジュニアオリンピックも1500mに出て5分01で走りました。
上の写真は2組目のみの結果で、6月の中学選手権からかなりの人たちに抜かれましたが特に記録にも順位にも拘っていなかったため特に何とも思ってませんでした。
トラックレースに関しては以上です。
夏の練習
時を少しだけ戻します。
夏休みになるとうちの中学校は中体連陸上の練習で全生徒の中から体力テストの結果を元にそれぞれ一定以上の記録を持ってる人は長距離短距離フィールドそれぞれに振り分けられて強化選手として練習する事になります。陸上部以外にも速い人先輩が何人もいたので、とりあえずがむしゃらについていって毎日練習してました。当時はそりゃあきつかったけど、逃げたいとも辞めたいとも思わず無意識に毎日走ってました。今考えるとすごい良い環境でした。
選ばれなかった人たちも一般生として任意で外周を走る制度があったので来てました。任意でも7〜8割の生徒が来てたから驚きです。(確か出欠取られて体育の点数になってたような記憶があります)
練習が終わると他の部活の人は自分たちの部活に行くので陸上部は図書室でお昼前まで勉強してました。稀に追加で練習することもありましたが、ほとんどは勉強してた記憶です。練習が終わって勉強が始まるまでの間に毎回食べていた母親が握ってくれたおにぎりが美味しかったのを覚えてます。
練習もして夏休みの宿題も進むなんてホワイトな部活なんでしょう。
なんか思い出話に花が咲いて思った以上にボリュームが出てしまったので今回はここまでで。
次回は冬場のロードレースのことや、貧血になったこと、陸上人生分岐点ともなる出来事について話せたらいいなーと思います。