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ピラティスを通して気付いたこと

122/366-2024.5.2
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まず先に断っておきますが、今回の記事に関しては、私個人のピラティスを通した「ものごと」の捉え方だと思ってください。


最近、私のレッスンでは対重力、対スプリングで「気付く」「私という存在」に気付くということを大事にしています。

ここに、どう「在る」のか?
どう、存在するのか?
ということですね。

そして、先日の特別レッスンで

全てのクライアントさんが、マシンのバネの重さを感じながら動いてくださった時、そこにあったのは「美しさ」のみで、「正しさ」とかそんなものは微塵も存在しませんでした。

それぞれのマシンとの向き合い方、自身との向き合い方、もっと大きな言葉を使えばそれぞれの「生き様」が見えてきました。

本当に美しかった。

どんな生き方、ものとの向き合い方をするかということに、正解不正解などなく、そこにはその時間を「生きる」美しい命しかないなと改めて。

「向き合い方」「生き方」
について思いを巡らせていたら、ふと「ピラティスはマシンや重力を通して「我」に気付いていくものだと改めて確認できました。

そう考えているうちに、
「じゃ、この世界ではどうだろう?」
という考えが浮かんできたのです。

この世界には「わたし」以外のものがたくさん存在します。

身の回りで言えば、「夫」「息子」「楽しいこと」「辛いこと」。
簡単にあげてみましたが、この世界も全く同時だということに気づきました。

「夫」という存在があるから「妻」としての「わたし」が生まれます。
「息子」という存在があるから「母」としての「わたし」が生まれます。
「楽しいこと」「辛いこと」があるから、それに反応する「わたし」が生まれます。

まぁ、なんということでしょう!!
「わたし」という存在に気付く、チャンスがたくさん!!!
四六時中✨
面白いですね。

さぁ、ここから話すことは、私の「ものごと」の捉え方だと思ってください。
哲学的なこと。
この世界の捉え方。


ある時期から、私は「私」の本当の部分は、内側に存在している魂のところにあって、この身体は借り物だなぁっていうことをすごく思うようになりました。

何もない「意識」だけが本来の姿で、たまたまこの世界ではこの身体に入っている感じ。

まさに、般若心経の『「色即是空(しきそくぜくう)」と「空即是色(くうそくぜしき)』

(「色」は「形あるもの」、「空」は「何もない」を意味し、「色即是空」は「形あるものは何もない」ことの説明しています。つまり、この世にあるすべてのものは因と縁によって作られたもので、その本質は実体の無い「空」であるという事、またその「空」がそのままこの世に存在するすべてのものの姿であるという意味です。)

↑↑↑こういう感覚。
だから、そこに境目はなく、全て分かれてない感じ。
となると、勿論「我」というものもないんだなぁ、と。

だから、そんな感覚ではない感覚を味わいに、私はこの物質的にも「境界線」ばかりの世界へ来てみたわけです。

「空」の世界もいいけど、「我」感じてみたい✨って感じですね。

これが正しいとか正しくないじゃなくて、これが私の「この世界」に対する解釈。

だから、ピラティスするときに、涙流れちゃうのも魂がちゃんと「わたし」に気付けるからなのかなって。
「あー、わたし『ここ』にいるな。」って。
認識するからなのかなと。
(もう一度言います。あくまで私の考え方)

人間は「私でないもの」と出会うことで「私」を発見する。
この世界が、そんなチャンスの場ということです。

なーんだ、それを経験したくて、この世界に存在するんだな。
わたしを取り巻く全てのものが、「わたし」を認識するモノなんだな。

まだまだ、今朝生まれたばかりの発見で、言葉にうまくまとめられませんが、朝一夫にシェアした話でした。

ありがたきしあわせ。

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