“わたし”のいろいろ



言葉で表現するのは苦手。

虐められ仲間はずれにされた経験が

自分の中であるはずの自信を

鋭利なナイフのごとく

切り刻んでくる。

傷つきたくない、だから言葉は苦手。




でも一方で、

どうしても自分の事を話さないといけない時

言葉を使おうとすると押し寄せてくる恐怖で

喉が痛くなり、泣きそうになり、

頭が真っ白になる。

結局、悪循環。





「あなたは何が好きなの?」

「写真で何を伝えたいの?」

「あなたの色は何?」



すぐには答えられなかった。

その時々で感情やシチュエーションは違うし、

それぞれの作品に“共通点”なんてないし。





まあ一つあげるとすれば、、、、

撮影現場が動物園よりもうるさいって事くらい。






不思議なことに人と喋ることは大丈夫。

喋って笑うことは大好きだから。


「現場を作るのとビジュアルの最終決定権は
フォトグラファーだ。」

「フォトグラファーは裏方であり、演者だ。」




こんな言葉をよく耳にしてからは、

その責任感からか、コミュニケーションは

最も重要な課題だと考え、

誰よりも喋ることを意識している。

緊迫した現場よりもガヤガヤっと。

真面目な話にも、すこーしだけ笑いを添えて。

皆が笑い合って、意見を言いやすい現場の方が

性に合ってる。





そんな現場なのに、

私の出来上がる作品はどうも綺麗らしい。

”うるさい“っていう情報が写真に現れない。

もちろん被写体さんのプロ意識等もあるけれど、

それでも“わたし”という存在は潜むどころか

全くいないのだ。

だから、作品に自分の一貫した“共通点”がない。



正直、現場での存在感は被写体を除いて、

うるさいから誰よりもある自信がある。

作品にも想いがあって創り上げている。



それなのに、なぜ?

言葉で何かを伝えるのが苦手だから、

“写真”という媒体に

自分の想いを込めようと思っていたのに。




総じて矛盾が生じ、形にできていない。







そう、思ってた。






ふと、弟が幼稚園生の時に私が撮った写真を見た。

携帯で撮った写真だから、質素な色味で

男の子が綿毛を持っているだけの写真。

なんて事ない写真。


でも、私にとっては宝物で。

歳の離れた姉弟だから、可愛くて仕方ない。

お互いに大人になった今でも喧嘩もせず仲が良い。


父も母も愛ある面白い人たちで。

その血は、恐ろしく濃く受け継いでいると思う。






さて冒頭で、

私は虐められてた経験があると話した。

その当時は、自分への自信が絶望的で

「どうせ私なんて…」

と思いながら学校に通い、

見たくもない悪魔のような顔が

どうしても視界に入ってきて

人が嫌いになってた。




そんな時の、

唯一心休まる瞬間が

家族との時間だった。


幼かった弟と一緒に遊び、

父や母に愚痴を聞いてもらって

目に見えない、暖かい毛布のような愛で

私を包み込み、常に私の味方でいてくれた。


そしていつも言われていたのは、

「これから色々な出会いがあるけれど

 傷つく事の辛さを知ったのだから

 あなたは絶対に人を傷つけることは

 しないでほしい。

 嫌いな人にも苦手な人にも出会うかもしれない。

 でもまずはその人の良いところを探して

 まずはそこだけを見なさい。

 あとは笑ってりゃなんとかなるから」
と。





私は自身の経験とこの言葉があるからこそ

人を嫌うことは少なくなり

今のわたしの価値観が生まれた。


言葉は苦手だけど喋り笑い合うのは好きで、

家族や友達、大切な仲間に愛されて

なによりも愛しているからこそ

私もしてもらったように目に見えない形で

静かにそっと包み込む。

(時にしっかりハグしに行くけどね)


私は人を見る時、その人の人情を見たがる。

何を考え、何を見てきて、何を感じているのか。

何を愛しているのか。愛してきたのか。

ありのままの姿を見たくなる。



だからコミュニケーションを取りながら

相手の価値観を尊重し、

私の価値観も言葉が下手ながらも共有して

お互いに高め合う事で、

初めて“写真”という形が生まれるのだ。







“わたし”の好きなものは大切な人たち。

”わたし“の伝えたいことは人の根本にある

暖かな部分。








“わたし”の色は透明なのだ。











だから“綺麗”なのだ。




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