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(途中やめのやつ供養)ウチらに「意識高い」はもう時代遅れじゃね?


どうも、いわみです。
最近、友人が「意識高い系」についてどう定義するかという問いを立てていたので、私も気になって主に大学生が持つとされる「意識」について考えてみることにしました。
あと、私自身、大学3年春学期ごろまで悪名高い「意識高い系」として名をはせていたので、そんな自分を大清算する意味も込めてこのnoteを書きます。

今日は、こんな流れで考えてみます。
①「意識高い系」の主要な使われ方(ネット世界といわみのリアルにて)
②「意識高い系」のルーツ
③「意識高い系」という側、言われる側


①「意識高い系」の主要な使われ方

1.ネット世界で「意識高い系」と言われる行為
ニコニコ大百科にあまりにも分かりやすくまとめてあったので、参考にしましょう。

・必要ないときまで専門用語や外来語を使いたがる
・問題提起・社会貢献をアピールし、これらをしない人間を下に見たり、啓蒙しようとする
・努力や忙しさの過度なアピール努力。アピール自体が目的にすり替わることもある
・自分の実績も過度にアピール
・自己啓発にハンパにのめりこむ(他人に啓蒙するとなるとさらに・・・)
・仕事してる感を演出したがる(スタバでmacとか)
・グローバル志向で、無闇に国際的な視野を持ちたがる
・新自由主義者で、合理的思考の拝金ゾンビ
・人脈づくりに熱心(SNSのフォロワー数、出会った人の数)
(なお、ここで述べる特徴は複数の意識高い系の人の間でよく見られる特徴であり、複数の特徴は備えていても全員がこの特徴全てを備えているというわけではない。)

参照:意識高い系とは(イシキタカイケイとは)-ニコニコ大百科

読むだけで、じわじわ辛くなる。笑

2.いわみのリアルにいる「意識高い系」と言われる行為


(大学生活の中で)
・就職活動を機に目覚める様子(3年秋学期~4年春学期に多発)
・エンタメ系ではない何かしらのイベントを企画、運営すること
・主に教育、海外、地域コミュニティーに関心を持ち行動すること
・社会系サークル(地域や国際志向)の存在
・社会的な活動で目立ったとき
・啓発、啓蒙的なイベントに関わること(就活、海外、地域など分野は様々)※なぜかボランティアはあまり「意識高い系」と言われていない印象

(SNSの中で)
・どっかから引っ張ってきた言葉で自分を肯定しつつ語りがち
・「〇〇(なんかすごい人)な人と××(インターン、飲みetc)」という多数の投稿(ストーリーに多め)
・エンタメではない課外活動や就活系イベントに関する思いや参加した感想の投稿
・エンタメではない課外活動や就活系イベントの告知を行う、またはシェアする

おそらく、
就活または社会問題解決のような分野での
①個人的な行動と思いの発信
②啓蒙・啓発活動に積極的に関わる行為
の2つが自分自身を含め私の周りで「意識高い系」的行為とされていると考えられます。

では次に、そんな意識高い系のルーツはどこからきたのか、いつごろから表現として浸透していったのかについて見ていきましょう。

②「意識高い系」のルーツ

さっそく、Google先生に聞いてみることに。
すると、次はWikipedia大先生のページに行きつく。これはレポートでも研究でも何での無いので、堂々引用失礼しま~~~す。


発祥
2000年代半ば
就職活動の場面において使われ出した「意識が高い学生」という言葉は「能力が高く、知識も経験も豊富な優秀な人材」という意味を持ち、ネガティブなイメージは無かった。
2008年
リーマン・ショックの影響により学生の求人が減ったことや、TwitterやFacebookなどのサービスが日本に上陸したことで、目立ちたがりの学生が実際に目に着くようになった。学生が各種講演会に出向いたり学生団体を立ち上げたりしたことをSNSに投稿するようになり、その欺瞞的態度に対する批判が挙がった。朝日新聞社が運営するwithnewsは、2008年時点で既に「意識の高い学生」という言葉は末尾に「(笑)」が付けられるなど嘲笑の対象とされていた。
2010年頃から
「見掛けは良くても成果が無い」とネット上で批判され始めるようになり、瞬く間に批判的な意味として定着するようになったとしている。
2016年
現代用語の基礎知識(2016年版)でも同様に、かつて就職情報会社が開催するイベントで「意識の高い学生が集まるセミナー」などと銘打った宣伝が行われていたことに由来するとしており、「意識が高く行動力があることは結構だが、それが空回りしていたり、ポイントがズレていたり、自己顕示欲の高さが感じられるので、揶揄の対象となっている」としている。
流行
2012年
千葉商科大学専任講師の常見陽平が、新書『「意識高い系」という病: ソーシャル時代にはびこるバカヤロー』を出版し、「意識高い系」の言葉を広めた。
2015年
日本経済新聞は「様々な活動に積極的に参加し、自分を成長させる努力をする人」を冷やかす意味合いとして「意識高い系(笑)」が使われる風潮があると報じている。
2016年
朝日新聞社の記事で「真面目に就職活動をしているだけで『意識高い系』と言われることがある」、「課題が多く出る難しい授業を取るだけで『意識高い』と言われる」などの意見を紹介しており、単に「真面目」という意味で使われる傾向も多いと報じている。また、読売新聞では「世間の常識と少し違うことを発言した場合」に「意識高い系」と揶揄されることがあると報じている。
参考:意識高い系 - Wikipedia

Wikipedia大先生を見る限り、はじめ「意識高い系」は、本当の意味で「意識が高く」マイナスイメージはなかったが、段々と行動するが中身の伴わない学生に対する揶揄の表現になり、最近になると広義の意味を持つようになり、真面目に物事に取り組む姿や一般常識外れな行為を揶揄するさいにも使われるようになったみたいです。
今は、2019年、その意味はおそらくもっと広い意味で、そして揶揄的表現として以前よりも浸透していっているなと感じています。

2019年の「意識高い系」
①本当に意識を持って行動している
②意識(発言、啓蒙)だけが高い
③講義や課外活動に対して熱心、真面目

でしょうかね。
(目次③からの「意識高い系」は主に上記の②、③を指します)

③「意識高い系」という側、言われる側

言葉のそばには、その言葉を中心に、発する人受け取る人が必ず存在すると思います。(ひとりごとの場合も自分から自分に向けている)
同じように「意識高い系」という言葉が登場するときにも、そこには「意識高い系」と言う人がいて、「意識高い系」と言われる人がいます。
私は、「意識高い系」「アンチ意識高い系」という概念での議論よりも、その言葉を使う人に注目したい。

以下は私の推測ですが、

揶揄する側は、
言動不一致で論理破綻している「意識高い系」という存在を揶揄し、否定することで「自分はああいう人間ではない」と自分を肯定し、さらに、真面目な人や行動を起こす人を否定することで、出る杭打った感に陶酔し、本来自分が感じている不安や不満足感をごまかしているような印象を受けます。「あいつは意識高い系だから・・・」とレッテル貼りをすれば、簡単にその人と距離を置くことができるし、優越感に浸れる気がするのです。

一方で、「意識高い系」と言われる人達は、
他者に対する自己の発信や啓発・啓蒙といった手段を通して、他人のリアクションを自分の価値を測る基準にして、自分の不安や不満足感を埋めようとしているように思います。自分の軸が無いというか、自己肯定感が低いのか、だから、SNSの投稿が「やってます、がんばってます」アピールだらけだし、「綺麗」に見えるビジョンや理念、言葉が行動を差し置いて先行してしまい口先だけの人間ができてしまうと考えるのです。

以上より、私は、「意識高い系」と揶揄する側も「意識高い系」といわれる行為をする側も内にある気持ちは全く同じじゃないかと感じているのです。
つまり、両者とも、現状に対する不安や不満足感が各々の行為の理由になっているのではという仮説が私の中で立ちました。

人に認めてもらうことで
現状の不安・不満足感を埋めたい「意識高い系」
人を否定することで
現状の不安・不満足感にモザイクをかけたい「アンチ意識高い系」

この2者によって、昨今の「意識高い系」論争が起きているのかなと考えています。
そしてこの両者とも、価値基準が自分自身ではなく他者に委ねられており非常に苦しい、辛いものだと思います。
つまり、不安・不満足感に対する対処方法が異なるだけで、どちらも本質は同じではないかと思うわけです。

意識の高い低いはあるけれど、問題はそこではないはず。
表現をする主体にもっと注目してみたいと思う。

「意識高い系」と言われる人は、自分が「意識高い系」と言われることを受け入れ、一度立ち止まってそんな自分を振り返る。
「アンチ意識高い系」は、なぜ自分が「意識高い系」に違和感を感じるのかを考えてみる。

そうすると、普段は考える余裕の無かった自分自身について見えてくるようになると思いまっす。、なぜこれを行うのか、しんどさや不安感はあるか、など
自分の基準を持てるようになると考えます。

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とかなんとか書いてるけど
要は、自分のこと無視して他人のことや他人の目線を気にして生きてても辛いだけってことでは。
意識高い系って言われる人も意識高い系っていう人ももっと自分のことを大切にしたらいいのではという話じゃないかしら。

はあ、そんなことを気にしている自分が一番自分のことを考えれていないし大切にできていないんじゃないかっていうね。
他者への問いは自分への問いでもあるとは言ったものです。

はい、この記事は供養。南無南無・・・



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