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ラグビーを見に行った。推し活のメカニズム

リーグワンの決勝戦を見に行った。
やはりラグビーは面白いが、テレビで見た方が試合経過がよくわかるのでテレビで見るのもオススメである。

が、やはりスタジアムで見る臨場感はすごい。

ついでに夢グループの夢イリュージョンも行ってきた。

次は保科有里さんによる焼肉コンサートライブというのが叙々苑游玄亭であるらしい。

コンサートは6000円、叙々苑は17000円という価格差があるのだが、みんな(技研常連メンバー)が熱に浮かされたように「次も行こう」と言っていてほほう。と思った。

吾輩は知能の研究者であり、同時に生命の研究者でもある(研究者が何を研究しているか名乗るのは本人の勝手だ)。

知能研究の一つとして人工知能があり、人工知能を研究するためにはまず何よりも知能そのものを知る必要がある。つまり自然知能、すなわち人間を含む動物の知能についても学ぶことが必要だ。

自然知能の成立に深く関わるのが自然生命だ。つまりいわゆる「生き物」全般である。現在広く知られている説では、自然知能は自然生命より自然に(自発的に)発生したと考えられている。したがって、知能と生命は両輪であり、どちらかだけを研究するということはあり得ない。

人工知能と自然知能に対応するのが、人工生命と自然生命だ。
これらは対立する概念ではなく、むしろ双子の子供のようなものだ。

非知能と知能(人工知能・自然知能)、または非生命と生命(人工生命・自然生命)の対比を考えることが、それらの本質に迫る上で大切になる。

さて、何でこんな話をしたのかというと、つまり、「夢グループ」にどんどんお金を注ぎ込みたくなるループに入っているのは、自然生命が本来自然に持っている性質に関係すると思われるからだ。

生命が自然にもつ性質の上で重要なものの一つに、ホメオスタシス(恒常性維持)と呼ばれるものがある。

これは、生命が内部や外部の環境の変化が起きたとしても、生理機能を一定の状態に保つ性質である。

ここに、アダムという人物がいるとしよう。アダムは人間であり、ホメオスタシスを持っている。

生命、特に自然生命は、例えば「今日のアダム」と「先月のアダム」を比べると、細胞はほとんど入れ替わってしまっている。その間に食べたものが「今日のアダム」の身体を構成している。

しかし、生命が生命たりうるのは、「今日のアダム」と「先月のアダム」の間にほとんど外的・内的な変化を起こさないからだ。これを一定に保つ仕組みこそがホメオスタシスなのだ。

これは生物の定義そのものにも関わる重要なことで、もしも細胞が入れ替わる過程で「今日のアダム」と「先月のアダム」の間に重大な差異がある場合、外から、とりわけ他の人間から見れば、「アダムは死んだ」と解釈することになる。

実際、「アダム」という人間の体を構成する細胞はほとんど死んでいくが、人間の体の中にはたくさんの微生物がいて、内部の微生物が外部の微生物と入れ替わったり、外部の微生物が内部の微生物に入り込みやすくなったりする。

要はホメオスタシスが崩壊すると生物は死んでしまう。

つまり、環境がどう変化しようと「昨日と同じ自分を保つ」ことが生命にとって一番重要な条件であるのだ。

これは生命から派生した知能活動にも大きな影響を与えていると僕は考えている。

心理学では、プライミング効果やアンカリング効果、ツァイガルニク効果といった様々な心理的性質が知られているが、これらは全て「同一性を維持する欲求がある」という共通点がある。

人間が老いを恐れたり、見た目の好ましくない変化を嫌ったりするのは、この「同一性維持」が長い目で見て失われていくことへの嫌悪、恐怖と考えられる。

心理学でよく知られている現象の一つとして、「お金を貸すと好きになる」という現象がある(ジェッカーとランディの実験)。

これは、貸すだけでなく支払う場合も同様か、もっと強い効果があると考えられる。

推し活がやめられないのも、パパ活女子に騙されてしまうのも、ホストに貢いでしまうのも、ダメ男をヒモにしてしまうのも、共通の原理が作用していると僕は考えている。

つまり、自然知能は、「過去に行った判断」を肯定したいという潜在的な欲求を持っているのだ(ちなみに人工知能は持っていない)。

「夢グループを見にわざわざ山形まで行ったんだから次も行きたい」と考えるのもこの原理にある。

面倒なことをすればするほど、お金をかければかけるほど「過去の自分の判断は正しかった」と考えたい力が働く。

ソーシャルゲームのガチャに課金するのも、推しのコンサートのチケットを買うために友達の住所と名前を借りるのも同じ心理と言える。

つまり「推し活をしている過去の自分」と「推し活をつづける現在の自分」のホメオスタシスを求めているのだ。

この状態から目が覚めるには、何か特別なこと、推し活を続けられないのっぴきならない事情が必要になる。推しの卒業だったり、LINEをブロックされたり、貯金がなくなったりだ。

それまで好きだった相手が突然つまらない人間に見えてしまう「蛙化現象」も、そのきっかけの多くは、「相手への認識が変化してしまった」ことから発生する。

例えば、憧れの相手に「無理だろうな」と思いながらも告白をする。返事がまさかのOK。すると途端に「憧れの相手」が「私の誘いにもOKしてしまうようなレベルの低い相手」に変化する。

「そんな身勝手な!」と思うかもしれないが、これが自然知能というものなのだ。

自然知能の特徴は、明らかに自然生命であることから由来している。

しかし人工知能には蛙化現象は起こらない。人工知能にはホメオスタシスに相当する機能がないからだ。特に今の主流であるニューラルネットワークは、常に細胞が入れ替わることが前提の自然生命とは真逆の、実に静的な存在であり、動的な要素はない。そこがいいところでもあり欠けているところでもある。

個人的には、自然知能が輝かしい成果を生み出す原因は、自然生命の持つのっぴきならない性質に由来すると考えている。

つまり、孔雀が羽を広げ、小鳥が歌を囀って求愛するように、自然知能は自らの同一性の維持を満たすために本を書き、物語を作り、プロダクトを作り、金を稼ぐ。

人工知能は、自然知能を模倣したものだが、このようなのっぴきならない事情を抱えていない。

人工知能および人工生命は、もっと深く入り込んで自然生命の性質にインスピレーションを受けないと、期待されるほど進化することはできないだろう。