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インターミッション

十年くらい前の話。当時の秘書から

「私、清水さんの影響で、本棚買ったんですよ」

と言われて、どういうことかと話を聞いたら、そもそも本棚が家になかったらしい。でも、会話に出てくる本を薦められているうちに本を置く場所がなくなり、本棚を買ったそうだ。

いいのか悪いのか。ただその頃の僕は「本棚が家にない状態」というのを経験したことがなくて、「そんなことあり得るのか」と驚いた記憶がある。

僕の両親は本が好きだった。
特に親父は、家中に本棚を設置して、意味があるのかないのかわからない、やたら値段が張るような、百科事典やら美術の事典やらを大量に持っていた。一種のコレクターと言ってもいい。

どれも、片田舎で暮らすエンジニアには全く不必要なものである。
仕事に使う本ももちろんあったが、それは初歩的な数学や電子回路や三相交流の本であって、あとはSF、推理小説、中国思想などなど、まあごった煮だった。

家族の思い出といえば、図書館とラーメン屋に行ったことくらいしかない。
というか、家族で休日なにをするかと言えば、宮内の青島食堂にでかけていって、それから中央図書館に行くのが毎週の習慣だったのである。

中央図書館の隣に小学校、中学校があったから、図書館の書架というのは実家の本棚と同じくらい、身近なもので、今でも僕は図書館に行くと落ち着くのである。

だから家に本棚がない生活というのがどうにも想像を超えていて、でもひょっとすると本棚が家にないのが普通なのかもしれないと思うようになったのはごく最近のことだ。

本棚にあった本はたいてい売ってしまった。二束三文だったけれども、それでも焚書するよりはいい。

なぜ売ってしまったかと言えば、Kindleがあるからである。
もう本棚に本を並べる必要性がなくなってきている。それでも本棚は手放せない。Kindleになってない本だけでも相当数あるからである。

また、大型本などはそもそもKindleで読むと意味がなくなってしまう。
あの厚みが大切なのだ。

本を読まないで時間を過ごすことが考えられない。
我ながら時間の無駄だなと思うのは、同じ本を何度も読む癖があることなのだが、それでも読まないよりはずっとマシなのである。

人工知能屋さん兼UberEats配達員である僕の考えからすると、人間が「本を読む」というのは、人工知能が「棋譜を読む」のに似ている。

自分が体験したことのないことを、他人の経験談ドキュメントや他人の想像上の経験フィクションから疑似体験するのが本の主な役割である。

同じ本を何度読んでも何が書いてあるのかよくわからないことも少なくない。というかそれは本の持つ本質的な欠陥であり、また同時に素晴らしい特徴でもある。

一冊の本を読んで理解するのに何十年もかかることも珍しくない。それくらい、本は読むのが難しい。僕が小学生の頃に読んだごく初歩的なトランジスタの本ですら、理解できたのは30歳になってからだ。

いや、それだって理解できたとはいえない。せいぜい「作者と同じ程度まで理解できないことを学んだ」くらいが正解かもしれない。

誰にも世の中を完全に理解することはできないし、理解できないから本は理解できないまま書かれていることに一定程度の意味がある。

インチキな漫画を描き始めてから考え直したのは、文章を書くようなスピードで漫画(のようなもの)を描けるということに対する単純な驚きだ。敢えて普通の漫画っぽくない画風にしているが、普通の漫画っぽい画風にするのはもっと簡単である(が、それだとAIを使っている感じがしないのでこうしている)。

それ以上に、文章で書くよりも場合によっては伝えたいことが書きやすいことに気づいた。個人的にはこれはちょっとした革命だ。

たとえば昨日の漫画に書いたような内容は、それこそ10年以上前に、「戦略、作戦、戦術、そして兵站」というテキストにまとめた内容のアップデートだ。

AI時代にAIを用いる者同士がどう戦うか、その戦いはどのようなものになるか、その上で勝敗を決するものは何になるか。

AIの立てた戦略は常に人知を超える。導入の初期段階では、「本当にAIのほうが自分(人間)よりマシなのか」疑う人も多いだろうが、今の強化学習AIですら「AIの立てた戦略の方が正しい」ことをきちんと説明できる(また、現代のAIによる説明が理解できない人間に、戦略を語る資格はない)。

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