見出し画像

NOが言えないのは、質と量の問題が混ざっているから。【ツッコむのは好きなのだけどね。あまりに多いと嫌だよ】

おはようございます。

朝8:16分。
新宿へ向かう小田急線は今日もパンパンです。

東京で働く様になってから、この満員電車に圧倒される日々が続きましたが、、、、人間とは面白いですね。こんな環境にも慣れてしまう様です。

最近の楽しみは、電車の揺れに合わせておしくらまんじゅうをしながら、昨日感じた事を文章に認める事。

大体1時間くらいの通勤なので、ひとトピックが書き終わる、ちょうどいい量の文字が書けるのです。

さて、今日はそんな取り組みを発信に載せてみようと思います。

今日お話しするのは、、、ってか今日お話しするのもコーチング絡みの話。(これだけ対話に時間を費やしてるとどうしてもね笑)


「Noを言うために”質”の問題と”量”の問題を分けて考えよう。」というそんな話です。

ちょっとタイトルとイメージが結びつかないかもしれませんが、これは好きな事を見つけるためにとても大事な話なんです。

少しずつ話していきますね。

やりたい事がわからないのは
感情のアウトプット不足


やりたい事を見つけたい!とか、好きな事を見つけたい!、、、、でも見つからない、、、って悩んでいる方と対話を始めて2年ほど経ちました。

最近になって、悩みを打ち明けてくれる彼ら(私も)の中に、とある共通点が見える様になりました。

それが何かというと発生した感情に対してアウトプット量が少ないというものです。


例えば何かを食べて「美味しい!」と感じてもそれを言葉にしないとか。

奥さんに対して仕事とても感謝していたとしても照れくさいし、いちいち改まるのも変だから伝えないとか。

仲良しグループとの会話の中で、ひっそりと傷ついている自分がいるのに、弱い自分を見せたくないから「そういう言い方しないでくれ」が言えなかったりとか。


発生した感情や、それがアウトプットできない要因は無数に存在するでしょうが、兎にも角にも私たちはアウトプットが苦手なんです。

で、アウトプットを怠ると何が起こるかというと、自分が感じた事を具体的に捉える機会を失うのですよね。


文字や言葉、もしかしたらアートなんていう抽象的なものかもしれませんが、何らかの手段で感情を表現しようとするときに私たちは感情と最も深く向き合うことになります。


他人に伝わる様にいろんな表現方法や語彙を検討しなければならないし、そういった表現方法を選んでいく過程で、発生した感情の隅々まで目線を配ることになります。

こうしたアウトプットを通じた感情との対峙が習慣付いていると、例えば心が躍る様な瞬間に出会ったときに


「ゲストハウスってところ楽しかったなあ、、、なんでだろう。こんなに晴れ晴れした気分になるのは久しぶりな気がする、、、。私は今日話した方の何に心を打たれたんだろう、、、?」


なんて、自然と頭が回る様になります。こうした思考の中で、自分の「やりたいこと」なんて多くの方が悩む様な問題を解決するヒントが膨大に入手できるのです。

だからアウトプットはとても大事。


感情はすぐに加工しないと腐る


でも厄介なことに、感情というのは賞味期限が大変短い。だから何かを感じたらなるべくすぐに、、、遅くともその日中にアウトプットできなければ、先程例に挙げた様な具体的な考え方はできなくなってしまいます。単純に何があったか忘れてしまうもの。

でも「何かあった、、、なんでか知らんけど楽しかった、、、」とか「なんでか知らんけど悲しかった、、、、」みたいな感覚だけはずっと残ってしまうのですよね。


ちゃんと逐一感じた事を掘り下げてアウトプットしないと、感情はやがて”感覚”という感情よりもアウトプットが難しく抽象度が高いものに姿を変えて頭の容量を圧迫することになります。

こうしたアウトプットがしきれずに、頭の中に感覚ばかりが溜まっていると、「やりたい事を見つけたい!」なんて頭をめちゃくちゃ使わなきゃいけない課題に着手できないのです。

イメージは机の上で作業したいのに、物が散らかってて作業するスペースがない感じ。まず机を平にするところから始めないと何もできない。

だから常日頃、感情のアウトプットを通じて机を整理しておきましょうね。ちゃんと発生した感情とは逐一向き合って、「これは楽しかった」「これは悲しかった」なんて付箋を貼って感情別フォルダにしまっておきましょうね。


問題は量なのか質なのか


で、ここまでが前置きです。本題に入るまでを短くしたいのに、日に日に文字数が増えていく、、、。私もアウトプットたりてないのかな笑


今回言いたいのは、そんな大事なアウトプット習慣を妨げるブレーキ要因の中で、とりわけ「NOと言えない」という課題について考えてみたいとおもいます。

ありませんか?noを言えないこと。

私は今までの人生の中でこの悩みに苦しめられることが大変多かったように感じます。


嫌なことをされたら”嫌だ””やめて”という。なんていう単純明快なロジックだったらまだ良かった。

しかし、大人の世界で降りかかってくる”嫌な事”はもっと複雑に種々の要因が絡み合っています。


自分が嫌なことでも、相手が善意としてそれをやってくる場合もあるし(ありがた迷惑パターン)


そもそも相手がしてくることが「嫌だっ!」と明確に感じるほどのものでもないとか。


例えば私の最近の話だとこんなことがありました、、、、、。



ケース1「ボケとツッコミ」


私は周囲のボケに対して突っ込むのが好きです。
相手がふざけているのを適切に捌いていく会話のテンポ感とか、そのコミュニケーションの過程の中で適度に脳みそに負荷がかかる感じが心地いい。だからひつじの前でボケていただくと大体突っ込まずにはいられなくなります。裏を返すと突っ込まないという選択肢が選べないんです。(なんでだろう?)

で、そんな特性を持っているので、会社の会話でもよくツッコミ役に回ります。スパスパ突っ込んで捌いていくものだから、相手のボケの量もどんどん増えていきます。
気づけばその方と顔を合わせれば必ずボケてくれて、ツッコミをするといった会話が普通になりました。そして私は基本的にこれを楽しんでいました。
しかし、つい先日このやりとりが苦しいと思うことがありました。何かというといつの間にか他の社員さんも私の前で同じボケをするようになっていたのです。
ツッコミの量が何倍にも膨れ上がります。これは苦しい。
このボケツッコミはあまり楽しめません。


こんなボケとツッコミの応酬を小学生の頃から繰り返しては、膨れ上がるボケの量に圧倒されてきました。で、これを「嫌だ」と言えない時間が大変長かったのです。


このシチュエーションから何を考えて頂きたいかというと、「もともと受け入れていたものを、状況の変化により受け入れることが難しくなった場合、どうやってNOを伝えたらいいのか。」ということなんです。


だって私は周囲にもいっているんです。「ツッコミは楽しいし好きだね。」なんて。だから今まで周囲もボケてくれていたわけだし。

それが急に「やっぱりボケるのきつい。やめて。」なんて言い出したら「え、なんで?」なんて返ってくるのではないかと想像してしまいます。


さらにはNOを伝えることで、相手とのコミュニケーション自体を否定するようなニュアンスを与えてしまわないか?なんて考えてしまったり、、、、、。



何を遠ざけて、何を受け入れるか。


縮まっていた相手との距離感を、”No"を言うことで再び遠ざけるのは多少の苦しさがあります。

ボケとツッコミの例を出しましたが、この問題は日常に発生するコミュニケーションの随所に見られます。


例えば、恋愛。
一度は好きだといって毎日一緒にいたかもしれない。連絡も絶えず交わしていたかもしれない。一緒に住んでいたかもしれない。しかし、そうして距離を縮めてみて初めて

”この距離感は近すぎるな。”とか
”この人とは友達のままが良かったかもしれない。”とか

自分の中にある感覚に焦点が当たるのです。
もともと相手と一緒にいるのは好きだし受け入れてきたけど、”付き合う”とか”一緒に住む”とかって環境の変化を経て”なんか違うかもしれない。なんて違和感を抱くこともあるわけです。


「恋人」にしろ「ボケ」にしろ、一度自分が好きだといって受け入れたものに”No”を出すのは、相手への裏切りのように思えてしまうし、自分自身へも否定的な感情を向けることになりかねません。

「自分が”好き”といったんだから、責任を持たなきゃ」なんてね。

でも、確実に心の中では”No”のサインは出ているわけです。”No”という感情が発生しているわけです。これをアウトプットせずに放っておくと、、、、、
「なんでか最近心が晴れないけど、なんでかよくわからない、、、、」なんて自分の生活全体に対してネガティブな印象を抱くことになってしまう。



長くなってしまうな、、、、。
ちょっと巻きます。

この記事で言いたいことは、「相手の質、ではなく量のみを遠ざけようね」ということなんです。


相手に対する”NO”が言えないって、彼らとの関わりを遠ざけることで多少なりとも人間性や感性の否定のメッセージを投げてしまうイメージを持っている方が結構います。(何度もいうが私も)

だけど私たちが”NO”を言いたいのは何も、相手との関わりの”質”が受け入れられないからではない。

だって一度は受け入れているわけだから。そうではなくて質以外の条件が変わったことで突然受け入れるのが難しくなることが大変多い。

その要因が何かというと”量”です。
関わる時間の長さとか、距離感とか、、、、、相手との関わりからもらう刺激の量。これがあなたの許容量を越えると心のどこかで”NO"のサインが出るのです。


では、なぜ心の容量を超えるような事態になったのでしょうか?
これは人によるでしょうね。そもそも、あなたの生活環境全体が仕事などで忙しくなって、他のことに時間をさいたり考えたりするのが難しくなったのかもしれない。単純に相手との関わりが多くなったことで許容量を超えたのかもしれない。


心が”NO"と言っている原因が刺激の量の問題であるならば、容量オーバーの原因は生活全体のバランスを見直さなければ見つかりません。


冷静に生活全体の刺激の量を見直すためには、どこかにNOを伝えて全体の刺激を抑えるしかありません。

だから、「あなたと関わっている時間は好きなのだけど、今一杯一杯だからそっとしておいてほしい。」なんてメッセージを伝えてあげるといいのではないでしょうか。


心について掘り下げてあれやこれやと考えても、結局有効だと思える打ち手は古くから世間一般に知れ渡ってるものが多いのよなあ、、、、。ただ、上部の知識や経験だけでそれを語っている人が多いから、知識として流通していても信用ができないことが多いのだけど。



長々と書いたけど、なんとも普通の記事になってしまった、、、、笑

あなたが受け入れられる刺激の量は限られているのです。だから、とある”誰か”との関わりがいくら好きでも、あなたの心の容量がいっぱいであるならば”質”ではなくて”量”の問題で受け入れることができないことだってあります。
だからその時には”NO”を出しましょう。


私はやっと最近それができるようになって、大変生きやすい、、、、、。
長かったなあ、、、、。


終わり!







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?