未知なるヤスハを夢に求めて

 公開されなかったある統括者の手記。

 これは統括者の間では名高い彼の海から遠からぬ、近代的な発展からは取り残された、郊外の、近隣の住人たちはけして近づくことのない、荒廃した屋敷で発見された、彼ないし彼女の残した最後の記録である。
 彼ないし彼女としたのは、単純にこれを読む貴方が、この奇怪なる出来事の真実に僅かなりとも近づくことを困難にするための、私の細やかな抵抗に他ならない。統括者のはしくれでもある私の同胞であり、同時に数少ない友人であるところの彼、ないし彼女に、いかなることが訪れたのか、それは私の口からはとても語りうることではないし、すべてが過ぎ去った今では、真実は最早われわれにはうかがい知ることはできないものでもある。唯一確かなことは、我が親愛なる友人は遠く遥か彼方に去って行ってしまい、二度と戻ることはないということである。
 この手記を公開することにより、貴方が、我が友人と同様に深淵--としか呼び表せぬそれ--に近づかぬための戒めとなれば良いと私は愚考するものである。



 『未知なるヤスハを夢に求めて探求を続けてきた我々統括者であったが、近年、遥か遠く、星霜の彼方より我らを呼ぶ幽かなる囁きに耳を傾けた結果、次々と名状しがたい黄色い、半球状の、亀の甲羅のような奇怪なるものへと変貌を遂げつつあるという恐るべき事実を誰が知ろう。
 いったい私が何を言っているのか理解できないかもしれない。それもやむを得ないことである。私自身が理解などできないでいるのだから。私を狂人と呼ぶのならそれもいい。だが、これは紛れもない事実であり、我々の哲学では計り知れないことがこの世には起こりうるのだということは、どうか覚えておいて欲しい。
 はじまりは初春の頃であったろうか。親交のある各地の統括者たちから異変を報せる手紙が届きだしたのは。まだ雪の残る肌寒い日が続いていたことを覚えている。
 それらの報せの内容を一言で言い表すならば「不吉」であった。夢に黄色い奇怪な物体が現れた。夜毎何者かの吐息が聞こえる。中国製の茶を受け付けない身体になった。誰もいないはずの厠から物音がする。
 どれも一時の気の迷いと一蹴することも可能な些細なことであった。少なくとも始まりにおいては。
 統括者というものは多くの場合、孤独を抱えているものだ。市井の人々にはいまだ理解されぬものを追い求める、一種の探求者ゆえの不可避の孤独。そこから精神を病むものも少なからず存在することもまた、悲しいかな、事実である。
 故に今回もそういった悲しむべきことのひとつであろうと考えた愚かな私をどうか許して欲しい。嗚呼、この奇怪なる現象が幻覚や、幻想の類いであればどれだけ良かっただろう。だが、違うのだ。何故ならこの私にも聞こえるのだ。あの麗しい囁きが!! はぁ、という甘い吐息が!!

 ……私の神経も随分と消耗してしまっているようだ。僅かな物音にも怯えるようになってしまった。私に残された時間は長くはないだろう。ここ数日は夢に黄色く凹凸のある半球状のものが現れるようになった。今も目閉じれば甘い香りが鼻孔を擽る。……香り!? 馬鹿な、そんなはずはない、あまりにも早すぎる。あぁ、なんということだ。今、視界端を黄色く輝くものが過った。

……なんということだろう。嗚呼、私は気がついてしまった。私はもう正気を保つ自信がない。いつの間にかこの部屋にはまるでバターのような甘い香りが満ちている。窓の外に見える輝くものは満月ではない。あぁ、あれは、』

 ここで手記は終わっている。

 なお手記の最後のページには殴り書きのような一文があるが意味をなしていない。あえて読みとくならばこのようになるだろう。

『はあ!はあ!やすはあ!やすはあ さくふわく おかめろむ ぱいせむん おかめろむ はあ!はあ!やすはあ!』

 ……おや、こんな夜更けに甘い香りが、

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