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聖書版 "塞翁が馬” ヨセフの物語

エルサレム近郊の山あいの街.テコア。

岩肌の見える山の畝が連なり、茨の灌木が生い茂る荒野。

そんな中にぽつんとある古い井戸の跡。特に囲いもない。古代からの遺跡が文字通りゴロゴロあるイスラエルでは、こんな発掘レベルのものでもそのまま。特に囲いもないから、夜にここをうっかり歩いたりしたらかなり危険。


そしてもしかしたら、聖書でヨセフが兄弟たちに放り込まれた井戸、だったかもしれない可能性だってある。


今週の聖書朗読はまさに聖書版"塞翁が馬"とも言える話。旧約聖書がお手元にある方は『創世記』の第46章28節から第47章10節までをご覧ください。

アブラハム、イサク、ヤコブと続いてその息子、ヨセフの物語。

ヨセフは幼い頃から聡明で、ある日不思議な夢を見る。それはいずれ彼らの兄たちや父母までもがヨセフにひれ伏すようになる、という主旨の夢。これには兄たちばかりか、父のヤコブもいい加減にしなさい、とヨセフを諭す。その後彼は兄弟たちから疎まれて、水の枯れた井戸に放り込まれた挙句、エジプト人に売られてしまう。でもその後エジプトで、賢いヨセフはしっかりと立身出世していく。

彼の"夢の意味を解く"力は、彼を運命の危機から何度も救った。さらにファラオが見た不思議な夢の話を聞いて、これからエジプトとどの周辺の地域に7年間ずつやってくる豊作と飢饉を予知して、ファラオからエジプト支配の全権を任せられるようになる。そして飢饉の2年目になんと、自分を陥し入れた兄弟たちが、エジプトに食糧を求めにやってきた。ここでヨセフはすぐには自分の身を明かさない。というよりは、明かせなかったのかもしれない。素知らぬふりをして兄たちに、「兄弟たちのうちの一人を人質にして、カナンの地で待っている末っ子の弟を連れてこなければ、食糧は渡さない」という。このあたりのせめぎ合いはぜひ、聖書を実際読んで味わって頂きたいですね。

そして色々あった末に彼はもう身分を隠していることに耐えきれず、人目を忍んで声をあげて泣いたのち、「私はヨセフです」と兄たちに身を明かす。兄たちはどんなに驚き、衝撃を受けたことだろう。

ヨセフはこう言う。「私をエジプトに来させたのはあなた方ではなくて神の力です。神が私を少し早めにエジプトに来させて、この飢饉から私の家族を守らせた」のだという。自分を罠にかけてエジプトに売った実の兄弟たちに向かって。


私はこの箇所が特に好きだし、きっとたくさんの人たちも好きな話だと思う。
その時起きたことは悲劇のようであっても、後になってそれが福に転ずる。そしてヨセフは父であるヤコブもその家族も、彼らの家畜もすべて呼び寄せた。ファラオもその家来たちも"ヨセフの家族が来た!"と言って喜び、エジプトで一番良い食料、家屋を提供するから心配するなと最高の配慮をして彼らを迎え入れた。いい話。落ち込んだ時に思い出したくなる話。


災いが福に転ずるまでには、時間がかかる。
だから、その時は苦しくても、後に振り返った時に"ああ、そういうことだったのか"とわかる時がやってくる。本当に、苦しみの真っ只中の時には暗くて寒くて、もうどうしたらいいのかわからない。それは、私たちは人間だからこそ、なのだそうだ。

ラビからの教えでは、全能の神は、発した言葉はその場で現実のものとなるそうだ。言葉イコール現実。まるで日本の”言霊”の概念のよう。でも人間には、言葉が現実になるまでは"時間"が必要なのだそうだ。私たちにはそれを噛み砕いて解釈する時間が必要なのだ。そうしているうちに時は流れる。その積み重ね、それを追うのが人の一生、なのだろうか。描かれた点と線は、振り返った時に初めてわかるのだろうか。それがいい、それだからこそ、いいのかもしれない。

このヨセフが放り込まれたかもしれない井戸に向かって、私も人生に飛び込んでみる。4年前、テコアで撮った写真を振り返って。


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