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当たり前のことを言う

これから当たり前のことを大袈裟にしゃべります。そして結論は、”どうでもいい”、になることを予言しておきます。

言いたいことはズバリ、
学生のうちにもっと世界を知っておくべきではないか?
ということ。自分が理系の学生として周りを見て、疑問に思うところが多かったので今回これについて考えます。焦点は、学生の情報リテラシーについてです。ここを考え直すことで大学までの人生を、つまらん就職へ向けての準備期間で終わらせないことができると考えます。

まず、目についた学生に対する疑問点として、高校レベルの社会科の知識の欠如があります。これは明らかに受験システムの影響するところが大きいのでしょうが、ここからしてわかっていない非文系学生が想像以上に多いです(自分もまだこの影響下にいます)。歴史を知れば現在の社会構造、諸問題についての文脈を知ることになる。それに対する個別の具体例として、地理、倫理、政治経済がある。これだけで少なくとも、極端な右、左翼思想に染まる危険を減らせます(別の視点から、非理系学生の理系知識も不可欠だとも考えます。簡単な例でいえば、水素水その他のトンデモを掴まされずに済む)。また、専門外の分野の本をもっと読む必要もあるのではないでしょうか。以上のことがなぜ必要と考えるかというと、メタ思考の基盤となるからです。

なぜメタ思考が必要なのか。それは、情報には方向性があるからです。発信者→受信者という方向性を把握せずに情報を理解するということは、いわゆる”情報を鵜呑みにする”ことになります。ポジショントークでない情報などほぼありませんし、そもそもこの世には情報の絶対数が多すぎます。情報に左右されないものの見方を身に着けずに社会に出ることは、小舟一つで太平洋のど真ん中へ放り出されるようなものではないでしょうか。

しかし、多くはそれでよいというのも事実です。就職するにしても研究やその他の世界へ進むにしても、その世界には先人がおり、すでに小さな社会が形成されています。一度その世界へ飛び込みさえすれば、ある程度の筋道は立つものです。太平洋上の小舟が海流に乗るのに近いです。しかしそれはすでに、自分の意思決定の外にあります。ガチャ要素を大いに含むのです。この価値を重く見るか否かで、個人ごとに情報リテラシーの必要・不必要が分かれるのではないでしょうか。つまり、出会う人、触れる世界にどの程度左右されたいか、によるのではないでしょうか。そして、多くは左右されてもいい。間違っていない。自分の取り組むものに対する”やりがい”を想像できさえすれば、人間は盲目になれる。

ここで盲目という表現をするのは、不適切でしょう。盲目という単語は負の印象を含意しますが、自分としてはここでいう盲目に負のイメージを重ねていません。むしろ、盲目は必要です。コーヒーを売って利益を得ることが仕事の人は、生産者との取引がフェアであるかどうか考える必要はないし、大学生が家庭教師バイトで、自分なんかに教わっているようでは本当の知性は得られないだろうな、などと考えても無駄なのです。ポジショントークを見抜く必要が、メタ思考を持つ必要が、全くないのです。むしろ余計。盲目である必要があるのです。

これだけ、それでいいじゃん、と言ってしまうとメタ思考の必要性が薄れてきてしまいました。そう考えてみると、自分がメタ思考を重要に思うからこんなこと書いているだけだと気付きました。ポジショントークを見抜けるようになった方がよいのでは?というポジショントークをしていたことになり、自己に対するメタ認知の甘さを確認する作業をしていたことになります。結局、自分はこうありたいと考えていることを大発表しているに過ぎなかったのです。

普通、漠然とあっちの方かなー?と太平洋に漕ぎ出し、行き着いた岸で頑張るのに対し、自分はハワイに行く、と決めてコンパスを持ってから小舟を出したいだけだったのかもしれません。結論として、好きにすればいい、ということになります。

ここで一句

メタ思考 あったらいいが なくてもいい (字余り)

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