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ベッドの上で その2

今日は、私は泣いています、ベッドの上で、です…。

前回触れた同級生の「先輩」、やっぱりスゴイやつでした。

我が母校、新町中学校。野球部は3人の顧問の先生がいて、20数年連続県大会出場。そして、波多野が2年の時、見事県大会優勝、関東大会ベスト4に輝きました。波多野は、実は1年の時に陸上部に入ったのですが、諸事情で2年から野球部に転部していました。そして、県大会から関東大会と、これも伝統の応援団(野球部のベンチ入りできなかった部員で結成)として、ベンチの上で学ランを着てエールを送っていました。そんな中、2年生で唯一のレギュラー、しかも5番打者だったのが「先輩」です。ちなみにこの時エースだった1学年先輩は一昨年度の群馬県高野連会長でした。

3年の時は残念ながら県大会は1回戦敗退。しかし、その実績が認められ、地元群馬の私立高校に野球推薦で入学したのです。

実は、「先輩」は小学校の時に父親を亡くし、母親が腕一本で育てていた4人兄弟の長男でした。口癖は「絶対プロ野球の選手になってお母さんを楽にさせてやる。」でした。しかし、高校に入って時々電車で会うと、「練習がきつい、辛い。」と愚痴をこぼすようになっていました。

そして、忘れもしない、その年の8月1日。波多野は先輩のインターハイ出場を応援するために、東京の叔母の家に泊まっていました。朝、新聞を手に取ると、一面に大きな見出しで「群馬県で高校球児死亡」という記事の下に「先輩」の顔写真が載っていたのです。

なにがなんだか、訳がわからなくなって、波多野は陸上部の先輩の応援もそっちのけで、群馬に戻る電車に飛び乗っていました。

「先輩」の家についても、そこには「先輩」はいません。司法解剖のため葬儀まで家にも戻れませんでした。

夏の甲子園予選に敗れたその高校は、2~3日の休養の後、練習を開始し、最後に炎天下グラウンド10周のランニングをしたそうです。同じ高校に、数人の野球部仲間が進学していましたが、そのうち2人も同時に倒れたそうです。しかし、今ほど熱中症の知識もない時代、練習中は水を飲んではいけないという時代でした。しばらくそのまま放置されたあと、様子がおかしいと救急車で運ばれましたが、時すでに遅し。「先輩」は16歳を目前に帰らぬ人となったのです。


波多野たちは、小学生時代、本当にのびのびと、自分たちで野球に、遊びに取り組んできました。中学校でも先輩は厳しかったですが、顧問の先生に無理矢理やらされると言うより、自分たちでノックもお願いして打ってもらう、バッティングも先輩の後ろについて順番を待って打たせてもらう、という練習をしてきました。苦しくても楽しい野球部でした。

それが、高校に入って、あんなに「プロに行くんだ。」と頑張っていた「先輩」が弱音を吐くようになった。何が違うんだろう。やっぱり、高校になると、甲子園に行くことが第一義になってしまうのか。前回「先輩」の存在に触れて、あらためて思いだし、いろいろ考え、そして泣いてしまいました。

陸上競技の話と少し離れてしまいましたが、波多野は陸上を教える中で、生徒に「全国大会に絶対出ろ!」とか「日本一になれ!」と言ったことはありません。公立中学校の陸上部ですからいろいろな生徒がいます。その中で生徒の頑張りを見て「頑張れば県大会出られるかも」「ひょっとしたら入賞できるかも」「関東大会に出られるかも」という声かけをしています。

指導者としてヘタレだと言われてもかまいません。でも、そんな中で、力のある子は、何人も関東や全国大会に出場してくれました。もちろん市の大会で終わる子にも、最後は「自分の力を出せたか?」と聞いて、出せたという子は褒めます。

唯一、全国大会で4位に入賞した子は、最後に「頑張ったな」と言ったら「悔しい」と涙を流しました。そして、その後高校ではインターハイ2位。国体や全日本ジュニアでは優勝したものの、やはり悔しいと大学に進み、大学で日本一、それもインカレだけでなく日本選手権でも栄冠を勝ちとりました。

指導者として日本一を目指すことが、けっして悪いこととは思っていません。そこを目指す指導者の方は並々ならぬ努力をしていることと思います。

しかし、そういった方には、何のために、誰のために日本一を目指すのかを問いたいと思います。

この子のために、この子を応援してくれるすべての人のために、と言う答えを期待して。

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