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考えるべきは、「どう死にたいか?」なのかもしれない。

こんにちは。ハルカです。胃腸をぶっこわしまして、一足先に実家に帰ってお休みをいただいております。偶然にも期末の課題がレポートばかりのため、大きすぎる支障はありません。過去の自分の履修選択にめちゃくちゃ感謝しています。ありがとう。過去の自分サイコー。

胃腸をぶっ壊した原因は薬の副作用でして、夜中に吐き気で死ぬんじゃないか、と思ったりしてたんですが。どうも最近死を近くに感じることが多いんですよね。なんだろう、季節的な問題もあるのかもしれませんが。

友達の「最近親戚に不幸が多くて……」という話だったり、先日の任天堂岩田社長の訃報だったり。少し前には、通ってる大学の先生も一人亡くなりました。なんか昨晩とか、「母が死んだらどうしよう……」みたいなことを考え始めて、めちゃくちゃ不安になったりしてました。アホですね。母には「お母さんが死ぬ頃にはあんたも肝っ玉になってるよ」と一蹴されました。想像できない。

話を戻しますと、死って案外近いんだな、と思いまして。そんな中で、今日の今日のダーリンを読んだら、糸井さんが、

“いつごろからか、ぼくのひとつの願望は、「お通夜のにぎやかな人」になりたい、でした。”

と書いていて。「どう死にたいか」を考えることは、「どう生きたいか」を考えることにつながるんじゃないか?と思ったんですよね。

ここで言いたいのは、「明日死んでも後悔しないような生き方をしてるか?」っていう、ちょっとゴリゴリ押してくるような、何かに踏み切らせる感じの問いではなくって。

例えば、わたしはあんまり惜しまれずに死にたいな、と思ったんですよね。これはどうでもいいような存在になりたいとかいうわけではなくって。わたしが死んでも、何も困らないように人との関係性を作っていきたいというか。うーん、伝わりますかね、これ?

なんていうんだろうな、もちろん「惜しむ」っていうのは愛情だとかが関わっているわけで、そういう意味で惜しんでもらえるのはとても嬉しいんですが、うーん……。わたしの持っている機能が働かなくなるから、という理由で惜しまれたくないというのが正しい言い方なのかもしれません。

たしかに、こういうnoteみたいな文章は一応わたしにしか書けないわけですし、わたしの築いてきた人間関係はわたしにしか動かせないものでもあるんですが。それを作る方法は、ちゃんと引き継いでいきたいなあ、そのためにはやっぱり言語化が必要だなあ、みたいなことを思ったんですよね。

わたしが「母に死なれたら困る」と思うのは、母が持っている生き方のノウハウとかをまだ受け継ぎきれていないから、という部分もあって。心の拠り所を複数作るという技術がわたしには欠けているし、一人でも強く生きるための方法もよくわからない。

その全てを母だとか、尊敬する人が持っているわけではないだろうし、自分で経験から獲得しなければならないものもかなりあるとは思います。でも、引き継げるものは引き継いでいきたいなって。相手が信頼できる人だからこそ思うんですよね。

で、こういうことを考えつつ、じゃあ自分はどう死にたいか?って考えたら、惜しまれずに死にたい、つまり自分の持ってるものとかできることをバーっと放出しきって、かつ、その相手が自分で運用できる状態にまで持って行ってから死にたいな、と思ったんです。

わたしは今のところ、子供の自己肯定感を育むことができる仕事をしたいなあと考えていて。多分、わたしわりとそういう声かけとか得意なんですけど、それで得られる自己肯定感が一時的なものじゃダメだよな、完全に役に立ったとは言えないよなって思いました。

わたしがいなくても、その子が立てるか?とか。わたしがいなくても、その仕事場がうまく回るか?とか。そういうことを考え始めたら、自分だけができてもダメだな、他の人にもわかるようにすることは大事なんだな、と思うようになりました。

中学生Aちゃんとわたしが関わっていたとして、親密な関係を築けたとして。わたしが途中で他のことに携わらなければならなくて、Aちゃんとの時間がとれなくなる、ということは簡単に想像できます。そのときに、すでにAちゃんが一人で立てるようになっていたらいいけれど、そうじゃなかったら。同じ仕事をしている誰かにAちゃんを任せる必要があります。そのときAちゃんを傷つけないためにも、同僚を傷つけないためにも。考えていることや、ノウハウの共有って大事だなあと思いました。

話はいろんな方向に飛びましたが、全部「どう死にたいか?」を考えたときに見えてきたことです。「どう生きたいか?」ってなんかぼんやりしていて、イメージが難しいなあと思ってたんですが、案外「どう死にたいか?」なら考えられるのかも。と思って書いてみました。

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