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「Mr. コーマン」について

ジョセフ・ゴードン=レヴィット(以下「JGL」)は、俳優として子役からキャリアをスタートさせ、順調に出演作を重ねていくも、2000年にコロンビア大学に進学するために一度活動を休止し、その後、2004年頃から復帰を目指すものの殆ど仕事を得ることが出来なかったそうだ。
そういった閉塞した状況を打破すべく、自らが代表者となって立ち上げたのが、映画、音楽、書籍ほか様々なアートをネットを通じて配信するプラットフォームにしてオンライン・コミュニティである”HitRECord”であった。
JGLは、2005年頃からハリウッドメジャーの映画にも再び出演するようになりながらも、インディペンデントなHitRECordでの活動も継続的に行っており、目立ったものでは、長編映画としてJGLの初監督作品となった「ドン・ジョン」の制作、あるいはチボ・マットやネルス・クラインをゲストに迎えたアルバムをリリースするなどしている。

そして、今年、HitRECordとA24との共同制作によりAppleTV+で配信されたのが、全10話からなるコメディシリーズ「Mr. コーマン」であり、JGLはプロデュース、監督、脚本、主演を兼ねるなどまさに三面六臂の活躍で、実際、その内容はメジャーとインディペンデントの間を天衣無縫に往来するJGLならではの渾身の一作であり、端的に言えば「コロナ時代のメランコリーに向き合うためのサウンドトラック」とでも形容したくなる、愛すべき一作となった。

以下、「Mr. コーマン」の内容に関して記しますが、最後までネタバレしているので、読むに際しては、十分ご注意ください。

JGLが演じる本作の主人公ジョシュは、プロのミュージシャンを目指しながらも挫折し、現在は小学校の教師として、雌伏の時を過ごすような生活をしているが、生徒たちとの距離感も上手く掴めず、そこに生き甲斐を見出しているわけではない。
かつて同じバンドをやっていた彼女と別れて以降、特定のパートナーもおらず、たまに女性と出会う機会があっても、やはり上手くいかない。また、人間関係を構築しようとする際の気まずさのようなものは、相手が両親であっても同様。
こういったディスコミュニケーションが繰り返し描かれるほか、時折パニック発作を起こしたりもするのだが、決定的な何かがトリガーになるというより、頭の中ではスムースあるいはドラマティックに進行する話も、現実世界における空気、他者との距離感、先行きの不安さなどが混然一体となった、何かしらセンシティブな気質がある人なら共感するものがあるであろう、ただ「生きる」こと自体が持つ圧迫感、それに付随する精神的な疲弊が主たるテーマとなっている。

そんな日常の中、プロとしての活動は諦めたものの、ジョシュにとって音楽が特別なものとして存在することは変わらず、楽器を手にし、曲を作り、自宅でレコーディングすることは止められない。何かを目指すためというよりは、漫然と過ごす日々にあって、そこだけには少しの救いがあるかのように。

そうこうする内に、ジョシュが住むLAにも新型コロナウイルスが蔓延することで生活様式は一変することとなる。もともと神経質であったジョシュは、偏執的なまでに他者との接触を避け、極端なまでの潔癖症となっていく(悲劇と喜劇は紙一重だけに、ここはかなり笑えるところ)。

他者との距離感が掴めず、コミュニケーション不全が常態化したジョシュにとって、面倒くさい人間関係が原則オンラインを通じてのこととなる変化は寧ろ好機。
取り分け、ひょんなことからオンライン上で出会う(ジェイミー・チャン演じる)エミリーとの関係は、これまでに経験したことがないほどの意気投合ができるものとなる。
ただし、それがいつまでも続くわけではない。
ジョシュには録り溜めた音源があること、それらが未完成であることを(音楽を殆ど聴いたことがないという)エミリーに説明するが、「私はなんでも完成させたい性分なの」と告げられる。

技術の進歩により大概のことはオンラインで可能となっても全てが事足りるわけではなく、逆にこれだけ様々なことができるが故に、オンラインでは絶対に叶わない事柄が際立ち、特別な価値を持つものへと変遷していく。

互いに好意を寄せ合いながらも、いつまでも自宅に籠り続け、オンラインによるコミュニケーションから踏み出そうとしないジョシュに対し、エミリーは諦観交じりに「だから未完成のまま?」と告げる。

何かを完成させるということは喜びと恐怖が相半ばするものである。
未完成であることを担保とすれば、残酷なまでの客観的評価からいつまでも距離を置くことは可能となる。ただ、そこには自己満足以上の何かがあるわけではない。

ジョシュが既にレコーディングした音源を組み合わせれば一定の曲には仕上がるが、ビートという決定的なピースが足りない。ドラムマシーンを使うこともできるが、それではジョシュが求めるグルーヴは得られず、自ら叩くドラムを足すことでしか納得できる曲は成立し得ないと考える。

そのグルーヴを求め、ジョシュは部屋を出て、スタジオに向かい、ドラムを叩く。
(見事な編集により)これまで録り溜めてきた音源が映像としてフラッシュバックで挿入され、そこには本作のファーストショットと重なる、自らの上半身を手で叩きビートとして利用するものまで含まれる。

こうして曲は完成した。Lo-Fiで多少の歪さが伴うものかもしれないが、「今この曲を聴いてもらいたい」という祈りが込められた、そして、ジョシュというキャラクターが歩んできた証のようなものが刻み込まれた良い曲だ。

果たして、この曲はエミリーに届くのか?
この曲により、これまで殆ど音楽を聴いたことがないというエミリーの心を動かすことができるのか?
本作はレコーディングが終了した時点で完結するので、それは分からない。が、それで良いと思う。なぜなら「それはまた別の話」なのだから。


本作はLAでの撮影開始から約三週間後に新型コロナウイルスの影響により撮影の続行が不可能となり、セットをニュージーランドのウェリントンに移した上で、残りのパートを仕上げるという経緯があったとのこと。
そして、本作の後半は、パンデミックを背景とする物語となっているが、これは当初の脚本から大幅に修正されてのことらしい。
当初の脚本がどういった内容のものだったかは分からないが、間違いなくより時代を刻印したものとなったのだろうし、結果的にこの修正は本作のテーマをより鮮烈に伝えるものになったと確信している。