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【食育】"生き物"と"食べ物"の間

食育の大本命は、生き物と食べ物の境界線(間)に触れること

じゃないかなぁ〜?なんて考えてます。

ここで言う生き物っていうのは、動物も植物も含まれてて
もちろん、ペットや友人としての生き物と、生きる糧として口にする生き物は別もの。

・観葉植物と家庭菜園のプチトマトは別もの。
・観賞用の熱帯魚と塩焼き用の鮎は別もの。
・ペットの文鳥と家畜の鶏は別もの。
・ペットの猫と家畜の羊は別もの。ということ

生きる糧として生き物を食べるというのは、エネルギー摂取であり、その生き物を自分の中に取り込むことで、その過程はざっくりこんなステップで進んでいく。

生き物が食べ物になっていくステップ

【お肉】
1.家畜(牛豚鶏羊山羊馬)を育てる(ジビエを獲る)
2.家畜やジビエを屠殺する
3.処理する(血抜き、内臓摘出、皮剥きなど)
4.調理する(唐揚げ、トンカツ、ステーキなど)
5.食べる

【お魚】
1.魚を釣る(獲る)
2.魚を絞める
3.処理する(血抜き、内臓摘出、皮剥きなど)
4.調理する(お刺身、ムニエル、かまぼこなど)
5.食べる

【お野菜】
1.野菜を育てる
2.野菜を収穫する
3.処理する(洗浄、選別、加工など)
4.調理する(サラダ、野菜炒め、ソースなど)
5.食べる

BBQ研究家 岩井慶太郎


例えば我が家だとこんな感じ

1. 僕が釣ったよ!とっても"おっきな"お魚〜
2. 生かして連れ帰り、氷で絞める
3. まだ生きてる魚をペティナイフでおろして、骨も頭もきれいに処理
4.身だけじゃなくて頭も骨も唐揚げにして
5. 美味しく食べました!(写真は別の時のものだけど)



話をメインの食育に戻します。

ステップ1〜5のどこを体験しても、知識を得ても食育だと思う。

それがお肉だろうが魚だろうが野菜だろうが。

ここでは触れていないけど、フードロス問題や流通に触れるのも食育だと思う。

ただ、1から2を連続的に体験することが最も本質に近付けるんじゃないかなぁ〜と思う。

1の段階で、その生き物には命が宿っていて、まさに生きている。
2の段階に移ると命は断たれ食べ物になる。


これって、すごく当たり前の話をしていて、大人はもちろん小学生でも知識として知っている。
でも、知っているかどうかは重要ではなくて、腹に落ちていることが重要なんだと思う。


そのプロセスを経験し、
目に焼き付いている。
手に感触が残っている。。
その温度が蘇ってくる。。。
その匂いが鼻腔に残っている。。。。

1から2を連続的に体験すると、食べ物が生き物であること。命を頂いているということを、"頭"と"体"の両方で理解できる。

情報として、知識として、知っているというレベルではなくって、、。

"理解できる"というのは理屈じゃなくて、やっぱり体験に由来すると思うんだよね。

自らの意思で生き物の命を絶ち、生きる糧として食べる経験をして初めて理解できる。そこから意識が変わってくる。
「いただきます」と「ご馳走様」を口にする意味と重みが変わってくる。

自然と感謝が生まれる。
逆にその体験をした結果、思考や感情が感謝に向かわず、"かわいそう"という想いに飲み込まれてしまうと本質から離れてしまう。

そうならないように、なるべく若いうちに、心が安定している時に体験するのが良いと思う。

先ずはキチンと区別する。

動物も植物も同じ生き物として捉える。
ペットや友人としての生き物と、生きる糧として口にする生き物は区別する。役割も求めるものも違うのだから。

そうすれば、動物愛護やアニマルウェルフェアの解釈もズレてこないと思う。

改めて食育っていうのは、本人の心の状態と、どのようにステップしていくかをキチンと設計することが大事なんじゃないかなぁーと思う。

どのプロセスを、どのような環境で、どのような情報と一緒に体験するのか?


細心の注意を払って緻密に設計しなければ、意図しない方向に歩みを進めてしまうかもしれない。それはとても恐ろしいなって思う。

何を伝えるか?を考える以上に、何が伝わるか?何が伝わったか?に心を割いて設計すべきかな?と。

・受け止められるかどうかの見極め
・発する言葉
・体験のさせ方
・見せ方
・段取り
・姿勢
BBQ研究家 岩井慶太郎


この辺りを整理してアウトプットできる状態にしたいと思う。

農業、畜産を学んだものとして、BBQ研究家として取り組んで行きたい。

意見を貰えたら嬉しいです!


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