2011.3.11.震災の記憶 当事者と非当事者の「距離」について

直木賞で震災についての小説が入賞した。
「貝に続く場所にて」作者曰く、距離に気を付けて書いたと。被災者の被災度合いは様々で、その間にも距離がある。簡単に理解したり分かり合えないことを書いたと話してくれた。まだ読めてないが、とてもありがたい。良いテーマだと思う。

関連した体験を書きます。

私は被災地生まれ。当日実家に居た。しかし怪我もなく、壁にヒビ、本が崩れ皿が割れた程度だった。停電の夜、遠くの空が赤々と明るかった。ラジオで海上火災と聞いた。2週間は電気やガスや水道のどれかがない生活をした。近所の被害はブロック塀が壊れているのを数件見かけた程度。家は山沿い、内陸にあった。だから大きな被害を受けずに済んだ。私は未だに自分が「被災した」と言うことに抵抗がある。無傷だったし、家も無事だったからだ。

しかし

友人や親戚には被害が出た。
流されて亡くなった親戚もいた。


被災地生まれの友人A。
友人Aは海辺の生まれだ。彼女は遠方に居て無事だったが、家族の安否は当初わからなかった。
数日後、家族は高台逃れ津波スレスレで助かったと聞いた。いまAの生まれた街は跡形もない。
でもね、と彼女は言う。


「私の部屋だけは2階で無事だったの。一階は全部ダメ。家族のものは何もないのに、私のは本もアルバムもみんな残ってるんだよね。友達も、みんな無事だった」

震災3週間後私は予定通りAの住む町の近くに引っ越した。そのあたりは震災の影響は何もなかった。インフラが止まることもなかったそうだ。ただ、普通の日常があった。テレビも通常営業。異世界であるように平常に見えた。

すぐに4月が来た。

越した先の歓迎会では偶然にも震災時被災地に居合わせたと言う男性がスピーチをした。折角だから、皆んなでお話を伺いましょうと司会が言い、男性はにこやかに登壇した。


彼は震災直後すぐに行動したおかげで、次の日の朝にはバスに飛び乗り、こちらまで脱出してきたと言う。あの、素早い行動が自分を助けたのだ。決断が早かったから良かったのだ。覚えておいてほしい。など、困った時の現地脱出法を、自分がいかに幸運だったかを語った。そして最後に

「しかしね、ああいうときにこそ、人間の本性がでるんですね。人の汚いところを見てしまった。」

と、言った。待ちの列に割り込み周りをおしのける人を見てきたと。みんなピリピリしていて、自己中心的に振る舞っていたのを見てがっかりした。ショックでした。と。

高みの見物を決め込んで何を言うのだろう。我先に逃げたのはこの男性ではないか。私は率直に言って腹が立った。被災して、様子は見ていた。人は見えないところで盗みを働いた。もぬけの殻になった家に空き巣も出たと聞いた。決して綺麗事ばかり、助け合いばかりの世界ではなかった。それでも、さっさと逃げ出してきたこの男性に言われるようなことではないのだ。

歓迎会から日を置かずに私はAに会いに行った。
Aの表情は当然だけど暗かった。

「皆新歓で浮かれてて、私も手伝わなきゃいけないんだよね。だけど全然そんな気分になれない。親は今避難所。妹の友人がまだ見つからない。妹は現地に探しに行ってるところ。」

まだ余震を繰り返していた時期だった。


ようやく話せる、と言って語る彼女の言葉に私は頷くのが精一杯だった。周囲が日常を楽しむ中で自分だけが故郷の被害に心を痛めている。その状況がつらいのだと彼女は嘆く。
でも、私の家も家族も友人も無事だ。
私が彼女に頷いて良いのか。何を「分かる」と言えるだろうか。

一年後、後輩が入ってきた。

「へぇ、東北の人なんだ。あの震災に居たんですか!どうでしたか?」
明るく問う彼に、私は被災生活や震災2週間後海側へ行った話をした。臭い風、転がった車、散らばったクレヨン、車にスプレーで書かれたバツと数字(自衛隊の記録用記号 確認済みとか、何人居たとか、死んだとかを示す)

彼は興味深そうに一通り聞いてそれから
「写真をみましたか?」
と聞いてきた。

「写真?」

当時はSNSに大量の写真が上がっていて、彼は夜通し夢中になってそれをみたのだという。ランドセルの小学生の遺体を。津波に飲まれる無数の人を。無数の遺体を。「shamolさんも見るべきですよ。ホントすごかったですから!」

私は絶句して それからようやく
初めは電気が通っていなかったし、ようやくネットが繋がった頃も探していたのは給水所やスーパーの情報だった。そして、これからもあまり見たくないのだと答えた。彼は、「そっかぁ。過激すぎるから今のネット上からは削除されてるかもしれませんしね。いやほんと可哀想でしたよねぇ。」と朗らかに答えた。

実感がないとはこのことだろうか。

彼は理解できてないだけだし、消費していることに気づいていないだけだった。悪気はどこにもみあたらない。後輩は他の同僚と当時の写真を検索しはじめた。私には彼に何かを言う気力はなかった。談笑が響いていた。

被災地と非被災地にも、私とAにも、AとAの家族にも、想像では埋めきれない経験の隔たりがある。

震災から5年後

私は英語講習を受けていた。その中でI survived の震災津波の本が私向けの教材として選ばれた。事実を基にしたフィクションで子供向けのアドベンチャーシリーズだ。
嫌な予感がした。本は変更してもらった。変更後の本は同シリーズでタイタニック号に乗った少年が知恵と勇気で助かる内容だった。同様のノリで震災を描かれたら私は堪らない。
他人事なら震災でも無邪気にこんな知恵あんな知恵で乗り切ろうかと想像して楽しめたのだろうか。本を選んだのは被災地から遠い場所の人だった。

あの時の生死を分けたのは「運」が大きい。
知恵がなかったから死んだわけではない。死んでいいはずもない。

絆、絆、絆。

震災直後のテレビからよく流れた言葉だ。津波を生き延びた夫婦が言う。

「俺と妻はさ、手をきっつく握り合ったがらなんとか流されずに済んだんだ。…絆だね」

…なあ。お前はさ。
堪えられず手を離してしまった人に絆がなかったからだろ、と言えるのか。この夫婦に罪はない。その物語が必要かもしれない。だが、それを「テレビで垂れ流す意味」をもっと考えろよ。

おもちゃじゃねぇ。見せ物じゃねぇ。消費するな。わかったふりをするな。

断絶だった。私があの震災から感じたのは。
復興五輪と嘯いてみせるオリンピックから感じたのは。

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■おわりに

私の感じた当事者と非当事者のギャップについて書きましたが、ぶっちゃけ感情的な寄り添いよりもお金を被災地に流してもらったほうがありがたいとは思います。後輩の彼はなんだかんだで募金はしてくれたらしい🙏
復興はまだです。

この話題に触れる時、当事者と話す機会があったら少しだけここで書いたギャップについて思い出して欲しい。キツいものがありました。

とはいえ、あの時は遠方からやってきた給水車(岡山!)のおかげで水を手に入れることができましたし、被災地のために尽力してくださっている人がいるのも、心を配っている人がいるのも理解してますし、深く感謝しています。

ここまで、読んでくれてありがとうございました。


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