善光寺分院 千葉県船橋市 浄土宗西光山光樹院浄勝寺 私の百寺巡礼144
台風7号の鉄道への影響を心配して、長野市善光寺行きをキャンセルした直前、私が訪れた千葉県船橋市。
幾つか見所を廻る中で出会った1つに、ここ浄勝寺がある。
全くの予備知識なしに行ったもので、
ええ?善光寺分院?
と驚いたのであった。
社務所に入り、受付にいた男性に善光寺行きをキャンセルした話を愚痴る、愚痴る。
おまえ、何やねん!とツッコミもせずに、その方はお寺で作成されたパンフレットを下さった。長野善光寺にもこちらのスタッフ、檀家さんはよく行かれているようだ。
実は、大体の寺社仏閣はネットのホームページやら、所在地の役所のページに同じものが載っていたりするのだが、あくまでも手作りのようで、行った者しか分かち合えないのだ。
ということで、こちらを紹介したい。
浄勝寺の歴史
西光山光樹院浄勝寺と号し、室町時代後期・足利11代将軍義澄の時代、明應5年(1496年)に金蓮社頼譽周公上人を開山とし、浄土宗の念仏道場として創建されました。江戸時代になって第6世専譽大超上人は徳川家康公と信仰が深く巡礼御休息所として寺領30石の御朱印を拝受し、中興の祖と仰がれました。そして、船橋で唯一の御朱印寺として格式と由緒を誇り、人々の崇敬を受け発展してまいりました。
その当時の浄勝寺の境内は間口45間(81m)奥行き東西110間(198m)あり、諸堂も完備した大伽藍でありました。その後、多くの名僧を輩出し、第9世圓蓮社純譽上人(寛永17年没)は浄土史上に残る学僧でありました。
しかし、天保元年(1830年)・安政4年(1857年)・明治35年(1902年)と3回の火災により、一切を焼失いたしましたが、その都度お檀家の皆々様方の絶大なる協力により再建されました。先々代住職第28世田中智肇上人(昭和43年没)は仏教大辞典の編纂に携わり後世に残る仏教学者でありました。戦後諸般の事情により浄土宗を離脱して単立寺院となりましたが、平成26年浄土宗へ復帰し、檀信徒の皆様方のご先祖様の菩提を弔い、また皆様方の日々の生活の安泰をお祈りいたしております。
尚、現在の本堂等は、平成11年(1999年)に再建完成いたしました。
浄勝寺本尊 阿弥陀如来
寛政13年(1801年)の寺記によると、恵心僧都作丈3尺幅1尺1寸弥陀・観音・勢至三尊で海中より出現されたと記されていましたが、安政4年(1857年)の失火により悉く(ことごとく)消失しました。その後丈2尺5寸の御本尊を東京浅草の某寺より御遷座して泰安致しましたが、尊容破損ひどく明治45年3月大改修し、観音勢至菩薩二体を添えたと記されています。
この御本尊は旧本堂左脇間に安置されておりました。大変古く、素晴らしい御本尊ですので破損部分を修復し新本堂正面に遷座いたしました。
善光寺大本願別院
旧本堂の御本尊は善光寺如来でございましたが、新本堂建立に当たり新客殿二階大広間に御遷座奉安いたしました。この御本尊阿弥陀如来(一光三尊)は大正時代第28世契譽智肇上人が安置したものです。その後昭和5年8月25日付にて浄土宗信州善光寺大本願出張所として承認され、善光寺別院として明照権を組織し、親しく檀信徒教化に勤めさせて頂いております。
女郎神さん
当山境内には「女郎神さん」と呼ばれている石塔があります。旧新地が近くにあったので、下(しも)の病気で苦しんでいた人たちの信仰の場であったと考えられます。石塔は大分破損しておりますが、刻まれている文字から武蔵国足立郡石神(現在の川口市石神)にある地蔵精舎(現在の真言宗豊山派妙延寺)境内にある石塔を写して、嘉永7年(1854年)2月に、第25世進譽忍海上人の時、檀家寺町中村灌四郎氏、壷町川嶌甚蔵氏の寄進により建立されたものと推測されます。
この石塔に刻まれている仏様は、寛政2年(1790年)3月1日に石神村付近に暴風があった時に、その村長(むらおさ)が、山中で若い気品の高い18歳位の女性のすすり泣く声を聞きつけ、手厚い看護をしたが、同月6日に不帰の客となってしまいました。土地の人たちは、その亡骸を庚申塚に懇ろに葬ったと伝えられております。
この若い女性は由緒ある身分の高い方ではないだろうかとか、越後新発田藩主の落胤(貴人が妻以外の身分の低い女性に密かに産ませた子)で、由あって江戸から国元に帰る途中不慮の災難にあったのではないかといろいろと伝説があります。しかし、この女郎神様の女性はあまりにも美しく可憐な乙女であり、身分を明かさなかったので、もした女郎ではなかったのではとの憶測から生じたものと思われます。
この女郎神様は北向きに安置されておりますので、「願掛け地蔵さん」とも呼ばれ地元の厚い信仰を頂いております。
戊辰戦争と磅礴隊(ほうはくたい)隊士について
戊辰戦争において旧幕府軍と新政府軍が衝突する中、1868年5月24日(慶應4年閏4月3日)に船橋でも大きな戦争が起こり、結果は新政府軍の勝利に終わりました。しかし、その戦において、敗走兵を追い詰める為新政府軍が建物に火を点けたことにより、多くの建物が焼失。民衆への影響も大きいものでした。その後も、旧幕府軍と新政府軍による武力衝突は各地で続けられており、緊迫した状態は已然続いておりました。
そうした中、船橋の守備に当たっていた隊の一つに磅礴隊(ほうはくたい)がありました。磅礴隊は尾張藩において慶應4年1月に結成された草奔隊であり、東征大総督有栖川宮の護衛の任に就き名古屋を出発、彰義隊討伐の際には偉功をたてました。
その磅礴隊の元に、船橋驛付近に賊徒(幕府軍)が集会をしているとの知らせがあり、同年8月11日、隊士3名(中嶌・牧・佐久間)に偵察に行ってくるよう命じ、その日は船橋驛の天満屋で宿をとります。翌12日早朝、潜伏していた賊徒に襲われ、それに応戦しますが、3名とも亡くなってしまいます。
その後、同年8月18日に墓碑を当山境内に建立。長岡三省、鬼嶋自作、平野點二によって遺体を埋め墓碑を建てたことが記録に残っています。明治19年3月官費によって石の玉垣を新設して平成21年に、老朽化の為玉垣は撤去いたしましたが、現在も墓碑は当山境内で懇ろに弔われています。
また、船橋から遠い愛知県名古屋市でも同3名が弔われています。
海軍大将・八代六郎も磅礴隊隊士の1人でした。その縁からでしょうが、義父・八代逸平の墓を建立する際に、磅礴隊士(中島吉三郎、牧新次郎、佐久間建男)の墓も併せて建立し、興正寺(名古屋市)に現存しています。
*大正3年8月6日新豊寺に建立、廃寺に伴い大正13年現在地に移築
筆子塚
江戸時代の初等教育の場はもちろん寺子屋。寺子屋で学ぶものは、いわゆる「読み書き算盤」が中心。数え歳の9歳前後に入学し、4年間ほどで卒業するのが多く、一般の農民・町民の子弟に手習いが普及するのは、江戸時代の中期から。そして時代が下がるにつれ、就学率は高くなっていった。
五節句ごとの白米2升が授業料だった。弟子は寺子屋というくらいだから「寺子」と呼ばれていたかと言うとそれは稀で、「筆子(ふでこ)」と言うのが多かった。
筆子塚と言うのは教えを受けた筆子が、師匠に感謝して造立した墓碑や顕彰碑などの総称。ここで注意したいのは、師匠の誰もが、寺子使を造立出来たわけではない。師匠の中には村一番の資産家という者もあり、貧しい筆子からの寄付は遠慮したとも言う。
御嶽信仰(御嶽講)
長野と岐阜の県境にそびえる標高3067mの御嶽山を中心とした山岳信仰。御嶽周辺の限られた地域の人びとによって江戸時代後期に至るまで信仰されてきた。その後、尾張の覚明と武州の普寛の2人の行者が出現し、覚明が1785年(天明5年)に、普寛が1792年(寛政4年)に、それまでの百日の厳しい重潔斎から軽精進のみでの御嶽への登拝を可能にして以来、限られた地域を超えて広く多くの人びとから信仰されることとなった。特に
、普寛行者は江戸の商人などを組織して講を作り、上州の武尊山や越後の八海山などにも登拝するなど、その信仰圏は江戸を始め武州や上州、越後などにも広めた。その後、覚明や普寛の弟子達によって、2人を講祖と仰ぐ多数の講社がつくられたが、明治の神仏分離令により、いずれかの教団に所属しなくてはならなくなり、その後幾多の変遷を経て、諸教団に所属して活動している。
富士信仰(富士講)
富士講とは、富士山と浅間神社に対する進行で、古代からの遠くから遙拝(ようはい)する山を、江戸時代からは「登山」として参拝する山に変えた。
富士講の基礎を作ったのは、藤原角行(長谷川左近)で、1620年(元和6年)江戸に奇病が流行った時「おふせぎ」と言う呪符を授けて多くの病人を助けた。その後、1733年(享保18年)江戸で代書の打ちこわしが起こった際、食行身禄(じきぎょうみろく)が世直しの為に自ら生き仏になることを決意し武家政治を批判した。「お添え書きの巻」を遺し即身仏になった。これを契機に、江戸を中心に富士講が発展し、庶民の集団参拝が始まった。
富士山麓にある浅間神社には神職である御師の宿坊があり、富士講の人々は、毎年決まった宿坊を利用した。御師は、各地の富士講と繋がりを維持する為に、毎年村々を巡回して信仰を維持し広めた。
丁度、お盆の時期で住職さんがおられず御朱印は頂けず。
それでも、こんなにも歴史ある事を学ばせて頂き、感謝である。
浄土宗西光山光樹院浄勝寺
船橋市本町3-36-32
船橋駅より徒歩6分