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庭に桔梗 秩父郡長瀞町 秋の七草寺 真言宗智山派金王山観音院多宝寺 私の百寺巡礼269

秩父と言うと、札所34ヶ所廻りが有名ではあるが、長瀞町はそこには加わってはいない。隣の皆野町までだ。
そんな長瀞町は、秋の七草寺巡りがあるのだ。

秋の七種類の草。萩(はぎ)の花、尾花(おばな)、葛(くず)の花、撫子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)、それに桔梗(ききょう)を加えたのが秋の七草。
長瀞七草寺は、この秋の七草が一ヶ寺ごとにあり、たんねんに手入れがいき届き、参拝者は心や安らむ。
歌を愛する人達も多くみられるのも特徴。



長瀞というと、宝登山神社のイメージがある。不動寺は宝登山神社のすぐ隣であるので訪れる人は多いかと思う。

七草寺も寄居町に近い場所からと歩くとなると、かなり広範囲にもなり、これまた楽しい。
こちらの多宝寺は、長瀞駅の隣、野上駅の近くにある。


他にも野上駅近くには幾つかの七草寺があるのだ。

道から見ると、お寺と八幡神社と一体化した感じが又良いのだ。

金王山観音院福寿坊多宝密寺は、京都市東山七条真言宗智山派総本山智積院の直末にして御本尊に十一面観世音菩薩脇侍に不動明王、毘沙門天を安置され行基菩薩の作と伝えられている。
開山は英明法印にて元享元年より法灯を継承すること三十六世におよび六百六十年を経ている。その由来を尋ねるに当山二十四世日光法印は三峯山観音院の住職となり山容の整備を大いに計り再中興開山と仰がれ、爾来三峯山の住職は当山の住職となって入山する制を定めた。その後二世日惠、三世日照、四世日翁、五世性幢、六世日高、七世日俊、八世日雅、急性観(草冠に禾鬼)十世観深、十一世観宝、十二世観禅、十三世到阿の各法印晋住され、山内の興隆につとめた。就中当山二十九世日俊法印は当地浅見恒雄氏の先祖である。若くして京に上り花山院の猶子となって佛道に励み四十二才にして権僧正に補せられ、帰郷して当山並に三峯山の住職となり、大いに寺門興隆につとめた。享和二年には聖護院の宮御召の網代輿を拝領し、文化十二年には江戸城御年礼にあたって場内乗輿を許された高僧であった。この様に当山住職は幕末の頃まで三峯山観音院の住職を務めた名刹である。
この間、文亀元年火災により全焼せるも再建され、安永六年再度の火災により本堂、坊舎、表門、土蔵等全山悉く烏有に帰し、十五年を経て寛政四年旧本堂、庫裏を建立されたが、百針十六年の歳月と境内が湿地であるためその老朽が甚しく、近年檀信徒より改築の声頻りに起り、ここに早大、世話人と相計り大願を発起し、檀信徒に図って当山百年の勝計を廻らし、寺院古来の伝統ある木造建築により、本格的な本堂並に客殿、庫裏を建立し、当山開創六百六十年記念と併せて昭和五十九年宗祖弘法大師千百五十年御遠忌を迎えるに当り、記念事業ともなり所期の念願を達成することが出来た。
この大聖業の完遂することの出来得た事は偏に御本尊十一面観世音菩薩の御威力と檀信徒各位の菩提寺護持の熱意によるものである。
当山の法灯は益々栄え御本尊の威光倍増し永く伽藍安穏興隆佛法、檀信徒宗門繁栄、子孫長久を祈念するものである。(境内石碑より)


御朱印は書置きの物をケースから頂くものであった。その方が気を使わなくて良いかなと思ったりもするのであった。宝登山の麓の不動寺も同じ形式であった。

7月の中旬まで桔梗が観られる、との事で慌てて行ったのだが、残念無念。ナムサン!!

もう花の時期は終わってしまっていたのであった。
だが、桔梗の花とお堂を見守るように咲く百日紅の見事な事。
夏に秩父に行くとどこでも見かける、私の好きな花だ。
汗はどこへやら、百日紅にほっとする自分がいるのであった。
桔梗は、来年の6月末に・・・

長瀞駅周辺は観光客で歩くのも大変であるが、ここ野上駅周辺は静かな穴場とも言える。裏鎌倉ならぬ裏長瀞?か!

百日紅 独り静かな 長瀞よ

真言宗智山派金王山観音院多宝寺
秩父郡長瀞町本野上40-1
秩父鉄道野上駅より徒歩10分

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