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松島に映える寺 宮城県松島町 臨済宗妙心寺派松島青龍山瑞巌円福禅寺(瑞巌寺) 私の百寺巡礼173

奥のほそみちで、松尾芭蕉が行きたい!と熱望しながらも、ご当地俳句を詠まなかった場所。そこが松島だ。
松島や ああ松島や。。。は、芭蕉の句ではないらしい。
その松島にあるのが、国宝とされている瑞巌寺だ。
伊達の文化を感じる寺だ。


確かに素晴らしい寺院であった。伊達文化を感じる。

平面地図で見ただけなので、松島海岸駅からもう少し遠いかな?山登りするかな?と勝手に思っていたら、あら近い。平坦やないですか。の感想だった。
元々は、天台宗寺院であったが、鎌倉時代に臨済宗となり、江戸時代に伊達政宗が今の姿にしたらしい。
本堂、庭と見事なものであった。

萩の花が綺麗に咲いていた。あ、仙台名物「萩の月」はここから?か!

太平洋にかかった橋を渡り、五大堂へと。こちらも瑞巌寺の一部である。ここから日本三景と言われる島々がよく観える。
こちらの五大堂は景観がよく、ここだけを訪れてもいいと思えるほどだ。
ちなみに、ここだけなら入館料は要らない。御朱印は瑞巌寺で貰う。


日本三景・松島は晴天の日にはこんなにも素晴らしい。翌日が雨の予報だったので、どうしても土曜日に行きたかった。
松島は素晴らしい。

と、ここで又、五木寛之先生の本を引用したい。


みちのくで有名な観光地というときに、まっさきに名前があがるのは、やはり松島なのではあるまいか。
ちなみに「日本三景」のネーミングをしたのは、江戸時代の儒学者である林羅山の息子で。林春斎という人だったらしい。
「松島」とは、松島湾に浮かぶ大小260あまりの島の総称だが、多くの歌に詠まれている。
だが、松島を広く世に知らせることになったのは、何と言っても松尾芭蕉の「おくのほそ道」の力だろう。その影響は大きく、近世になると、詩歌や俳句や紀行文に「松島」という名が氾濫するようになる。
瑞巌寺は。芭蕉が「おくのほそ道」の旅で尋ねている古刹である。
ここに一つ不可解な謎がある。それは、芭蕉がこの松島・瑞巌寺では一つも句を詠んでいない、ということだ。
太宰治が書いた「惜別」という小説にも、主人公の魯迅が松島の景色の良さを見つけるのに悩む場面がある。もちろん、これは小説であり、魯迅が本当にそう思っていたという確証はない。むしろ、太宰自身が思っていたことを書いたものらしい。
けれども、私は松島の景観に思いの他交換を覚えた。海と島と緑に包まれたこの周辺の眺めというのは、清潔感があってなかなかいい。鳥の声と共に、出航する船の汽笛が聞こえてくる。
松島といえば瑞巌寺。瑞巌寺といえば松島。「超」がつくほど有名な場所と由緒ある寺がワンセットになっていれば、これは強い。松島を訪れる観光客は、ほぼ例外なく瑞巌寺へも足を運ぶ。
瑞巌寺は言わずと知れた戦国の名称、伊達政宗の寺である。現在の瑞巌寺の建物は。すべて伊達政宗によって造営されたもの。ある意味で、仙台藩62万石の栄光の歴史を象徴しているような寺だ。
ただ、もともと寺としては、仙台藩が成立するはるか以前からこの地に存在していた。
この寺の歴史は複雑だ。それは、「松島青龍山瑞巌円福禅寺」という正式名称にも表れている。寺の名前や宗派が途中で変わる例は少なくないが、この寺の場合、名前だけでも延福寺、瑞巌寺と変化し、宗派も天台宗から臨済宗に転じている。
寺伝によれば、最初にこの寺を作ったのは慈覚大師円仁である。円仁は天長5年(828年)に、淳和天皇の勅宣を賜ってこの地を訪れ、ここにお堂を作って延福寺と命名する。この名前には「比叡山延暦寺に比肩すべし」という意味が込められているという。
その円仁の願い通り、延福寺は鎌倉時代まで、みちのくの天台宗寺院として広く世に聞こえていたらしい。しかし、延福寺は鎌倉幕府の執権北条時頼によって、円福寺という臨済宗の寺に変わる事になる。
建長寺を創建したのが、この北条時頼だった。
建長寺創建から3年後に時頼は出家するが、以後も実験を握り続けていた。そして、出家後の時頼がひそかに諸国を遍歴した、という伝説が生まれる。
延福寺の寺伝によると、この時頼が諸国行脚の途中で松島に立ち寄ったとき、ちょうど延福寺の鎮守である日吉山王社の祭礼が行われていた。その時、時頼が祭礼の邪魔をしたので、天台宗の衆徒たちは怒ってかれを殺そうとしたらしい。
だが、祭礼の日に殺生は不可、と言ってとりなす僧がいたため、時頼は逃げのびる事ができた。その日、ひそかに岩窟で夜を過ごした時頼は、修行中の法身(ほっしん)性西(しょうさい)という禅僧に出会い、感銘を受ける。
鎌倉に戻った時頼は、延福寺から天台衆徒を追い払って廃絶してしまう。そして、改めて臨済宗の寺として円福寺を開き、法身性西を開山に招いたと言われている。
豊臣秀吉が没してから徳川家康に接近した伊達政宗は、関ケ原の戦いののち、仙台を治めることになった。
政宗は伊達家の菩提寺として円福寺を復興し、寺名を瑞巌寺と改める。木材は紀州熊野から運び、各地の名工を呼び寄せ、まさに伊達家の面目をかけて大伽藍を造営した。当時の伊達家62万石には、それだけの財力も権力もあった。
慶長16年(1611年)には、政宗に招かれて、スペイン使節のセバスチャン・ビスカイノなる人物が瑞巌寺を訪れている。彼は瑞巌寺を目にして「石造っ建築ではわがマドリッドのエスコリアル宮殿、木造では当山をもって世界に並ぶものなしと言うべし」と本国に報告したという。
やがて、伊達政宗が没すると、その遺志によって、当時、名僧として聞こえていた。
時は流れ、徳川幕府は倒れて明治政府が誕生する。その後の神仏分離令によって起こった廃仏毀釈の運動は、「殿様寺」と呼ばれていた大名の菩提寺にとってはとくに打撃だった。瑞巌寺の被害も大きく、当時の住持は極貧の中で伽藍を守ったという。
しかし、そうした歴代の住持の懸命の努力で瑞巌寺は復興し、今日では松島を代表する寺として全国に知れるようになった。
瑞巌寺は伊達政宗が再興して以来、400年近く火災にもあわず、当初の姿を保っているという。そのおかげで現在も、後期桃山時代の代表的な建築をこうして目の当たりにすることができる。
本堂の手前には、政宗が自ら朝鮮から持ち帰ったという、例の有名な
紅白の梅。地を這うような不思議な形状から、臥龍梅と呼ばれている。
禅宗の名刹だけあって本堂は重厚で威厳に満ち、伊達家の菩提寺にふさわしい剛毅な雰囲気だ。だが、一歩なかに入ると、まったく別の世界が広がっている。正宗の好みを反映しているのか、内陣は非常に華やかに荘厳されていた。
芭蕉の旅は、基本的に有名な歌枕を訪ねる旅だった。瑞巌寺について芭蕉は「紺碧荘厳光を輝かし」と記しているが、わび・さびの世界を求めた芭蕉にとって、壮麗で金色に輝く瑞巌寺は少々興ざめだったのではないか。
芭蕉が松島でついに一句も詠まなかったのは、おそらくそれが理由ではあるまいかというのは、作家の井上ひさし氏の推理である。
海の彼方に浄土があると考える「海の浄土」。ここ瑞巌寺ではやはり「海の浄土」という印象が強い。
この日本という国の中で、日本人が古くから聖なる地と考えた場所が山と海の両方にある。そして、寺の多くはそういう聖地に建立されている。


出来れば、雄島、福浦島にも行きたかった。だが、時間がなく断念。
何故、天台宗の鎮守である日吉神社がここにあるのかもわからずに時間ばかり気にしてしまい行けずにいたので、次回はゆっくりと、ずんだ餅を食べるなども頭にいれ、又来たいと思った。

萩の花 松島映える 瑞巌寺

臨済宗妙心寺派松島青龍山瑞巌円福禅寺
宮城県宮城郡松島町松島町内91
JR仙石線松島海岸駅から徒歩10分


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