浦島太郎伝説のお寺 横浜市神奈川区 浄土宗吉祥山芳艸院慶雲寺 私の百寺巡礼178
こちらも東急花御朱印巡りの1つとなっている寺院だ。
当慶運寺は、室町時代。文安四(一四四七)年に定蓮社音誉聖観(芝増上寺三世)によって開創されました。本尊は、「阿弥陀如来」で、寺宝としては音誉聖観上人像一体と広誉是感上人像一体を安置しています。
昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲で被災全焼の本堂は、三十九世法誉心華代の昭和三十三年に再興され、庫裡の方は遅れて昭和四十七年の再興です。平成十四年には、本堂屋根の瓦葺が鋼板葺きへと改築されました。境内地の広さは一七一〇平方メートル(五一八坪)です。
さて、慶応三年(推定)春の神奈川宿大火で観福寿寺が類焼しました。観福寿寺は現在の神奈川区浦島が丘にあって浦島寺と呼ばれていましたが、このとき慶運寺に合併されました。焼失を免れた龍宮伝来の浦島観世音像と浦島寺の碑四基は、明治六年に観福寿寺から慶運寺に移されました。観音像安置のため明治七年建立の観音堂は大正十二年の大震災で倒壊しました。三十五世信響戒浄代の昭和十年に再建、同年、太郎像と乙姫像も新調しました。昭和四十七年の庫裡改築に伴い、本堂東側にあった観音堂は現在の本堂正面に移転となりました。
この観音堂は、旧小机領三十三カ所子歳観音霊場の第九番札所とされており、その御詠歌は「ただたのめ願いもついに神奈川の 浦島かけて深きめぐみを」です。浦島伝説関係資料のうち、前記の「観世音像」、観音堂脇の「淳和天皇勅願所古跡」碑、門前の「浦島寺」碑は、平成七年、横浜市の重要文化財に指定されました。この観世音像いわゆる観音様は、太郎が龍宮より帰る際に乙姫様から玉手箱と一緒に守り本尊として授かったものと伝えられます。柔和な面立ちの観音様です。亀の背上に立っているお姿を間近に見ることができるのは、十二年ごとの子歳開帳の期間だけです。
横浜開港当時、慶運寺はフランス領事館として使われ、初代領事のベルクールが滞在しました。慶運寺は通称「浦島寺」として一般に知られます。
庭にある黒もちの木には、鮮やかなオレンジ色の実がなっていた。
お寺で働く男性だろうか。(経済的に余裕がある所は末寺でも人を雇うのだと知った)丁寧に庭やメダカの世話をしていた。
本堂を参拝させていただいた。
お寺の男性に案内されて行ったのが、観音堂だ。隙間から覗くのだが、観音菩薩、乙姫様、浦島太郎と祀られている。
これは何でも浦島太郎が竜宮城から持ち帰った観音様なのだという。
横浜市神奈川区には浦島という地名がある。浦島小学校という学校もある。
どうもそこは浦島太郎伝説と関係があるのではないか?私はそんな風に思っていたのだ。
昔の面影の残る良いお寺であった。
黐の実や 観音菩薩に 伝説よ
浄土宗吉祥山芳艸院慶雲寺
横浜市神奈川区神奈川本町18-2
JR東神奈川駅、京急東神奈川駅から徒歩5分