見出し画像

太田道灌開基の寺 伊勢原市 曹洞宗蟠龍山洞昌院 私の百寺巡礼248


洞昌院は、太田左衛門大夫持資入道道灌(法名洞昌院心圓道灌、文明18年卒)を開基として、陽室照寅が開山となり、創建したといわれています。天正19年寺領3石の御朱印状を受領、近隣に多くの末寺を擁する中本寺格の寺院でありました。太田道灌は、軍学の大家で、江戸城・川越城・岩槻城を築城したことでも有名です。
太田道灌(一四三二ー一四八六)は幼名を鶴千代といい、成人してからは資長または持資といった。また仏門に帰依してからは、道灌と号しました。道灌が生れた頃、父資清は相模の粕屋に本拠をおいていたので、道灌は現在の伊勢原市内で生まれたと思われます。幼い頃から非常に利発で、神童といわれていた。当時の日本は戦国時代で、各地の武将の間に戦が絶えませんでした。
道灌は二十五歳の時(一四五七)武蔵野の原に、海に臨んで城と町とを築きました。後に、この城は江戸城といい、徳川幕府三百年の居城となりました。これにより道灌は、いまでも東京の基礎を築いた人として、その名が高いです。
道灌は築城軍略の大家であるばかりでなく、詩歌を好み、風流を愛する文武兼備の人でありました。上洛の折、時の天皇の勅問に和歌をもって答えた逸話や、山吹の説話など有名な話も多いです。
晩年、道灌は京都の足利幕府と関東の公方とが、互に協力して政治を行わなければ、平和は望めないと考え、力を尽くしました。しかし、主君の上杉貞正は、己の権力の増大のみを求めていたため、道灌は怒りにふれ、志半にして粕屋の上杉館で謀殺されました。時に五十四歳でした。
道灌の墓のあるここ洞昌院は、道灌が関東管領上杉憲実の弟道悦和尚のため建てた寺と、伝えられています。


こちらが太田道灌の墓になる。

上粕屋にある曹洞宗、蟠龍山(ばんりゅうざん)洞昌院の境内の一角にあります。本寺は15世紀の武将、太田道灌が中興開基です。
室町時代、文明18年7月26日、主君扇谷(おうぎがやつ)上杉定正(うえすぎ さだまさ)の糟屋にあった館に招かれた太田道灌は、定正の手の者により殺されてしまいました。55歳でした。
道灌の最期については、いろいろな伝承があるようですが、子孫に伝わったものとして、館の風呂場で刺客に襲われ、「当方滅亡」(これでこちらは滅亡するぞ)と叫んで亡くなったとされる話が一番有名です。
遺体は洞昌院の裏手で荼毘(だび)に付されたといいます。墓には宝篋印塔が建てられていますが、年代的にも道灌の亡くなった時期と矛盾しないようです。また、墓前の左右には松の大きな切り株がありますが、道灌の四十九日の供養に当時関東にいた詩僧・万里集九(ばんりしゅうく)が祭文(さいもん)をささげ、植えた松と考えられます。明治半ばに描かれた墓の絵を見ると、立派な松が二本そびえています。さらに木刀と思われるものが奉納されています。風呂場において丸腰の状態で刺客に襲われた道灌に、せめて刀があったならという信仰からのものと思われます。(伊勢原市のページより)

大田道灌といえば、関東各地に伝説がある。
先日、豊島区の黒猫伝説の神社に行ったばかり。
伊勢原市も大田道灌のゆかりの地であったのか。

というか、何故に大河ドラマでやらないのか。

と、実は、幾つかの市で書名はされているようだ。もちろん、伊勢原市も。

広い敷地はなかなか手入れが大変のようだ。
私がお邪魔した時は、住職夫人が対応してくださり、書き置きの御朱印をくださった。
人もいないし、大田道灌のお墓もなかなか手入れが行き届かず、と言われていた。
沼津市、前橋市の寺院で見かけた「定年退職したんで、菩提寺の手入れをしてまーす」という人たち。ここにはいないようなのだ。
なんでもお寺に住む人達でするのではなく、もっと開かれた場所にならないだろうか?
などと思うのであった。

曹洞宗蟠龍山(ばんりゅうざん)洞昌院
神奈川県伊勢原市上粕屋1160
小田急小田原線 伊勢原駅下車
北口4 番バス停より 大山ケーブル行 約10 分
道灌塚前 下車 徒歩5分

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?