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ゴルフ場のホテルフロントに居るおじちゃんがくれた、「自分らしく居られるいつもの場所」

社会人1年目、22年間実家暮らしだった私が、はじめて家を離れて生活する日々が始まった。

「一人暮らし」でもなく、「定住」でもない平日出張生活

シンプルに言えば、千葉県房総半島にある本屋さんを回り、営業をしに行くお仕事。大きな書店から、個人が経営しているような小さな町本屋さんまで約120店ほどを担当することに。月曜から金曜まで出張をし、やっと家に帰れるのは金曜の夜遅く。

千葉でレンタカーを借りて、月初に決めた訪問ルートに沿い、場所を変えながらビジネスホテルや旅館に滞在するのだ。1週間分の仕事道具や服は1つのキャリーケースに入れて、車の後列シートに積み込む。まさか、自分がこんな生活を始めるなんて思ってもいなかったけれど、数週間の研修を終えて、いざ新しい生活スタイルを私はスタートさせた。

学生の時に取った車の免許は、本人確認証としては機能していた。レンタカー屋のお姉さんに「エンジンってどうやってかけるんですか?」と質問すると、丁寧に車のあれこれを説明してくれた。そして出発前に「ちゃんと帰ってくるんだよ」と。あの何とも言えない心配の眼差しは忘れられない。

車の運転も、仕事も慣れない中、帰宅する場所はビジネスホテル。「いらっしゃいませ」と迎えてくれるフロントの方に名前を伝え、鍵をもらう。キャリーケースを引いて迷路のような廊下を抜けると今夜の部屋を見つけた。整えられたベッドと小さいテレビ、デスクが置いてある簡素で綺麗な一画。

心の中で「ただいま」が言えなかった。

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まぁひとまず、キャリーケースの中身を開けてみるか。

今夜の部屋は喫煙ルーム。安心できるいつもの匂いは唯一、このキャリーケースの中だけだった。思わず、この匂いを逃がしたくないと思い、咄嗟的にキャリーケースのチャックを締めた。同時に自分の家のありがたみ、実家の安心感も噛み締める。

初めての土地。慣れない環境に疲れる。帰る家(ホテル)もよそよそしいというか、自分の家ではないのでどうも心が休まらないような。そんな生活に、当初は自分の家に帰りたくて帰りたくて仕方なかった。

転々とする日々、繋がりを感じた瞬間

ホテル暮らしを半年以上続けた、ある日。5回ほどお世話になっていたゴルフ場の中のホテルに今日も泊まる。ゴルフをやるわけではない私が、宿泊利用の目的だけに何度も訪れている理由は2つ。平日のゴルフ場のホテルは安い。そして、ビジネスホテルよりも1部屋が広い。たったこれだけ。

山道の先にあるゴルフ場に着いたのは午後21時半。スーパーでお惣菜を買っていたので、少しだけ帰りが遅くなった。「また、あのおじちゃんだ。」フロントのおじちゃんとは顔見知り程度。そのおじちゃんが珍しく話しかけてくる。

「仕事なにやってるの?」

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いつも鍵の受け渡しや、お金の精算しかコミュニケーションがなかったから、急な質問に焦り、即座に言葉が出ない。考えてみれば仕事が終わって、一言も声を発することなく眠る日もあった。基本1人なので、自分のことや最近の他愛ない話をする相手なんて取引先の方々だけ。
営業関係なしに自分の仕事のことを話すのは、以外にも初めてだ。

「えっと……房総半島にある本屋さんを北から南まで車で毎日営業しています。」

ちょっとだけ笑顔で答えてみた。
おじちゃんは第一声に、「偉いね」と言ってくれて、その後はいろいろと質問してきた。いつもチェックインをして、鍵をもらったらすぐに部屋に行き、朝のチェックアウト時にはそのおじちゃんはフロントに居ない。

たった数分だけど、このおじちゃんと繋がれたことは私にとって、大きな出来事のような気がした。
おじちゃんから話しかけられるまで、このおじちゃんのことを「フロントの人」としか見ていなかったんだなと気づく。これまで数々のビジネスホテルや旅館に泊まってきたが、個人的に仲よくなるとか挨拶をすることはなかった。

自分に干渉してほしくないわけではない。
ただ、現代において店員と客という関係性から、お互い何となく踏み込んではいけないような感覚でいるのではないかと思う。このおじちゃんはそんな関係性をついに壊してくれたと言っても過言ではない。


部屋が好きなわけではないけど、ゴルフ場のホテルに週1で行くようになった

それからというもの、ゴルフ場のホテルに泊まる回数が増えた。
帰ったらいつものおじちゃんが居るのかな、という安心感を期待して帰る帰り道がこんなにも心が温まるんだと気づく。自分の家ではないけれど、自分らしくいられるいつもの場所がこのゴルフ場のホテルにはあった。

毎回話すわけではないけれど、慣れたように「じゃあ、これ鍵ね。明日もこの辺回るの?まぁ頑張って」と数秒のやりとりは終わる。特段、部屋が綺麗な訳ではないし、ベッドがふかふかな訳でもない。美味しい朝食のサービスがある訳でもなければ、近隣施設に選べるほどのご飯屋さんがあるわけでもない。
なのに、他のビジネスホテルにはなくて、このゴルフ場のホテルにあるものを求めている自分がいる。

それは、"いつもの"フロントのおじちゃん。

「実家に帰りたい、転々とホテルで過ごす生活に慣れない、辛い」。ネガティブな出張生活を送っていた私。実家の安心感、匂い、定位置にある物々、地元の景色は出張中には手に入らないと思いながら、仕事も嫌になってしまうこともあった。

フロントのおじちゃんは私に新しい居場所を教えてくれた気がする。
何より、私を知ってくれている誰かがいるということ、私が知っているおじちゃんがいるということ、それが嬉しかった。

自分らしく居られる場所には、ささやかなコミュニケーションを取れる相手が居る

実は、この房総半島での出張生活は1年間で終わりを迎えることになる。3月の人事発表で内勤への部署異動が決まったのだ。正直、心の中ではクラッカーを2・3発パンパンさせ、拍手喝采のスタンディングオベーション状態だった。

部署異動までの期間は、各営業先に「1年間お世話になりました」と挨拶回り。そんな中おそらく最後になるであろう、ゴルフ場のホテル宿泊も迎えた。別に、取引き先ではないし、お世話になりましたと言う必要があるわけでもない……。でも、いつものおじちゃんは今日も居る。

「実は、来月から部署が変わるので、ホテル生活から解放されるんです」

と、チェックインの時に話しかけてみた。
おじちゃんには、早く家に帰りたいとか、この仕事キツイですと弱音を吐いていたことも。
そんな背景を知っているおじちゃんからは、「よかったね」と一言。

特に、寂しいねとかまた来てねなど、惜しむ声はなく、少しだけ目じりに皺が寄っていたのが印象的だった。
干渉しすぎないというか、気を使うことなく話したいときだけ話せる相手。ほんのささやかなコミュニケーションを取り続けてくれたおじちゃんには、感謝している。

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あれから4年ほど経ったが、あのフロントのおじちゃん、今も元気にやっているかな。もしかしたら、もう覚えていないかもしれないけど久しぶりにあの景色、あの部屋、何よりあのフロントに行きたいなと思う。


新社会人で初めて実家を離れる生活をして、「実家しか勝たん」と思っていた私。しかし、実家以外の場所でもなんだかんだ安心して過ごせるところってあるんだと感じることができたのは大きな経験であり、人生の中の小さな一歩である。いつかまた、あのゴルフ場に何の気なしに行ってみようかな。

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