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20230131

2.3時間項垂れる小さな背中(縫う編む織るは祈るに似てる)ーー電毒

生きてりゃ死にてえ日だってあるさーーSALU『ホームウェイ24号』

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覚えていられるほどではない悪夢から飛び起きると、設定したアラームの時間の2分前だった。

もう少し眠ることが出来たと苛立つが、二度寝をして遅刻のリスクを冒すほどヤケクソでもない。

錆びついた重機の様に軋む身体を強引に操る。

朝は一生眠っていたいと思うが、夜になると一生眠りたくないと思う。

意識は起きているが、意思はまだ殆ど眠っている。
いつからそうなのかは思い出せない。

老人のスピード感で身支度を済ませてから、半ば自動化された動きで家を出た。

何年も2022年の12月だった様に思っていたが、実際には2023年の1月の最終日だ。
いろいろなことをうまく思い出せない。

身を切る様な寒さに顔を顰め、少し咳をする。
あと何回この寒さを味わうのだろう。
数えるほどならありがたい。

2月、3月、4月、5月、6月、7月、8月、9月、10月、11月、12月と、予定されている月日の連続性が絶望的なまでに厳然としていて、父性にも似た権威を放っている。
悪夢的な数字の連なりを悍ましく思う。

未来、現在、過去全てを均一化させるほどにおそろしい力を持つ数字というものは、しかしおれにとって良い面もある。

決して損なわれない客観性は、人と人の繋がりを幾分か容易にする。
敷衍して言うと、、、先の予定が立てられる。

時制について考えるのは嫌いだが、予定は好きだ。
おれがわざわざ立てる予定は、楽しいものばかりだからだ。
その辺りの才覚は我ながら素晴らしく、一流のパティシエの様に、泥でできたケーキを際限なく美しく彩ることができる。
とは言え、泥は泥だ。
(ケーキで言うとスポンジにあたる)平易な日常は食えたものではない。
だからおれは、死ぬと決めたらまず予定を立てることをやめる。

数字、使いやすくて便利なヤツだとは思うが、それ以上に自分を苦しめるのもいつも数字だ。
期限、経済、自意識、他にも色々。
苦悩には大抵数字が絡む。

などと宣ってはみたが、これは単なるレトリックの様にも思える。
人間の苦悩に数字が絡むのではなく、人間が根源的に持っている苦悩に人間が数字を当てはめているだけなのだろう。
結局のところ、人間を苦しめるのは人間の後天的な価値観に過ぎない。

数字とは、人間が発明したものの中で最も人間を苦しめている、強い、親殺しの悪魔だと思う。

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今日も腹は痛いし、身体は緊張している。

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帰路

仕事が終わって帰る頃には、朝の様に観念的なことを考える気にもならず、即物的なことばかり考えている。例えば、飯とか金とか趣味とかエロいことだ。

起きたばかりの人間は生まれたての赤子の似姿で、物質世界との繋がりが希薄になっている様に感じる。(殆ど不定形の精神体。)
意識を取り戻すに連れ、世界とのつながりや外界の手触りを思い出していく。
慎重に、祈る様に手繰り寄せる。
それに失敗すると、やはり心身は失調する。
セーブデータの読み込みに失敗したぼうけんのしょの様に。

一度社会生活を送る人間としての意識を獲得すれば、大抵はつまらない個体に成り下がる。
そのつまらなさは鎧だ。
社会を知る中で手に入れた、周囲を参照し、相対的な立ち位置を確保するための技術。
傷つきながら懸命に鍛えた、ちょうどあなたの形をした、あなたの1番柔らかい部分を守る鎧。

だから、剝き身の願望を押し隠し、心の底からは納得できないことに折り合いをつけた時、自らを褒め称えて欲しい。
それはあなただけの苛烈な聖戦で、あなたは生き抜いたのだから。
そしてよければ、おれにその戦記を聞かせて欲しい。
苦しみながらも倒れずにいた戦士に無形の褒賞を与えたく思う。
おれもなるべく、その様にする。

何の話をしていたんだったか、、、。
そう。

朝のおれは自分が世界の総体であると信じ、生と死、過去と未来、その他種々の概念の境目を埋める液状の精神であった。
社会を意識させる客観性の象徴としての数字を忌み嫌っていた。(このことから社会の一部としての自覚を取り戻す作業、つまり、起床に苦痛を感じていることがわかる。)

夜になる頃には、自分自身が社会を生き抜くので精一杯の、無力で矮小で卑近な一兵卒でしかないことを思い出していた。
観念の声に耳を傾けている暇はない。
次々に迫り来る全く重要でない困難を捌き切るために必死で心を止めて身体を動かす。
嘘をつき、嘘をつくことなんて平気だというふりをする。
怯懦な精神は、来たる痛みに備えて硬く変容し、緊張し切っている。

どちらの状態が、人として強くて正しいのか。

“どちらも正しくて強いし、間違っていて弱い”

のだと思う。

陳腐でつまらない、ありきたりな答えだ。
人の在り方について考える時、大抵こういった帰結を迎える。
仕方のないことだと思う。
これだけ多様な哲学が実践されてきた現代で、人の理想像なぞまだまだ一欠片も定められていないのだから。

ならば、個人が何を指針として生きているかを表明し合うのが、人の在り方についての弁証を推し進める一つの方策なのではないかと思う。

おれの場合は、美しくあろうとすること、変容し続けること、人の暮らしを慈しむこと、なるべく理論を諦めないこと、ロマンチックに生きること、愛する人を慮り守護ること、ユーモアに苦心し続けること。
きっと他にもあるけど、とりあえずパッと思いつくのはこれくらい。
詳しく聞きたかったら、いつでもここを訪ねて来なさい。
それから、よかったら君の信条も教えて欲しい。
本当の話をしよう。

はあ、何を言っているんだろうね。
徹頭徹尾へなちょこで情けなく、胡乱な文章だ。
ぶれぶれで、何が言いたいのかも分からない。

家着いたし終わり。じゃ〜ね〜。

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