見出し画像

再読 ファイアパンチ 前半

 自分がamaz○nにファイアパンチの星5レビューを書こうと思った時です、目にした他のレビューが

”ファイアパンチは意味不明”
”支離滅裂”
”後半が失速”
”作者のモラルを疑う”

「作者のモラルを疑うことには大賛成だが、支離滅裂は違う!」
 この歯痒さを解消したく、このページを書きました。
 内容としては、一回ファイアパンチを読んだけどよく分からなかったという人が、ファイアパンチをもう一度手に取って楽しめることを目指しています。
 自分の解釈を一個一個説明するというより、大筋や理解しにくい描写を説明していく、外堀を埋めるイメージなので、この作品のテーマは何なのか?みたいな核心は、読者さん自ら考えて貰えればと思います。

目次
1.大筋を振り返る
2.比喩や象徴
3.孤独の苦痛
4.狂気に親近感を
  4.a 無意識に備わる無意識
  4.b 宗教の役割

5.余談



1.大筋を振り返る

 まず大筋を掴むところから始めましょう。
 この漫画は序章、頗章、旧章からなる三章構成になっています。日本芸能における序破急という脚本構成区分をもじったものだと思われます。
 各章はアグニが誰かを殺す決意を固める所で始まります。序章はドマを殺す決意で、頗章は氷の魔女を殺す決意で、旧章はファイアパンチを殺す決意で始まります。そして、各章の章タイトルが大筋を掴むヒントになるので、それも拾っていきましょう。


序章「覆われる男」 1~3巻


 最初の章から、村を焼かれ、妹の「生きて…」を果たすため復讐者としての自分になりきり、トガタの協力もあってベヘムドルグの本拠地に辿り着き、ベヘムドルグを火の海にしてしまう、という混沌とした内容になっています。
 復讐劇として始まったファイアパンチですが、進むうちに何の漫画か分からなくなる感覚を感じたと思います。作者自身、ジャンルをコロコロ変え、どこに着地するのか読めない漫画を目指した、とインタビューで答えています。1巻では復讐劇なのに、2巻ではトガタにかき乱されるギャグ漫画のようです。ようやく3巻で、アグニは自らの正義を思い出し、ヒーロー漫画としてまとまりました。

 次に章タイトル意味を考えてみます。
「覆われる男」
男というのはアグニでしょうが、覆われるって何でしょう
最初に思い浮かぶのは炎ですが、他にも作中には「覆われる」というセリフが2回出てきます。一つ目は繰り返し出てくる
「世界は雪と飢餓と狂気に覆われた」です。
二つ目は7巻のアグニのセリフ、
「怒りと痛みと狂気と嘘に覆われていた時の方が良かった」です。
(「嘘」というのは、ドマへの憎悪を自分で作り出したりすることです)

 覆っているものをマトメると「理不尽や狂気、そして嘘に覆われた男」だと、自分は解釈しています。アグニはあくまで被害者であり、それに抗う正義の側であったというのが重要です。


頗章「覆う男」 4~6巻 


 この章では、アグニはベヘムドルグで大勢の人を殺してしまったことを意識しつつも、神様としての役割も押し付けられ、アグニ教が始まります。しかし、ドマを激情に任せて殺し、スーリャの企みでアグニ教も壊滅、全てを失ったアグニはユダと兄妹ごっこを始めます。

 序章からは一転、アグニの加害者や悪としての側面があらわになります。章タイトルも、覆う側になっています。確かに、大勢の人を殺し、アグニ教の神として嘘を広める、「世界を理不尽や狂気、そして嘘で覆う男」です。

 この章から主人公であるアグニは迷走し、登場人物たちは登場した頃のキャラから逸脱していきます。ジャンル自体が序章から激変して、困惑した読者多数だと思います。

 序章がダークヒーロー漫画だとすれば、頗章はアンチヒーロー漫画でしょう。ダークであってもヒーローをやっていた序章と打って変わって、ヒーローという概念を打ち壊すような内容になっています。
 一般的なヒーロー漫画の特徴は善と悪がハッキリ分かれていることですが、頗章では悪役であるはずのドマの正義が明らかになり、主人公であるはずのアグニの加害性が明らかになっていきます。
 頗章の「頗」とは、「正しい位置、正しい向きを失ってかたむく」という意味があるそうです。

ドマ(上)とアグニ(下)の姿を重ねているのは、偶然ではないでしょう。アグニ自身が悪役であるはずのドマになっています。


 ファイアパンチの作者は、再生の祝福者が己の体を他人に食べさせるというアイディアのヒントが、アンパンマンであったと明かしています。
 そしてアンパンマンの作者である やなせたかし は、アンパンマンの着想を得る過程が、まず「絶対的な正義とは何か」を考え、その答えは「飢えている人に食べ物を与える」であるとし、食べ物を与える主人公にしようと決めた、と語っています。
 やなせたかし が、絶対的な正義として考えた「飢えている人に食べ物を与える」を、「お前が死ねば人肉を食う文化だけが残る」とドマに論破させたのは、アンチヒーロー漫画としての演出に思います。


 そして、ヒーロー漫画の前提にある「強い意思」にも疑問を投げかけます。序章で炎に焼かれながらも復讐を誓っていたアグニは、どんな逆境にも屈しない「強い意志」の持ち主に見え、まさにヒーローでした。しかし、役割を失うとともに心がぽっきり折れ、ユダと兄妹ごっこをする頭のオカシイ奴になりました。
 でも頭がオカシイ奴と冷ややかな目で見るのではなく、「生きる糧」を失っても折れない「強い意志」なんかあるのか、なぜ人は狂気に飲まれるのか、そんな目で見てあげて下さい。

(この章から前景化してきたものが、旧章を読み解く鍵になります。)


旧章「負う男」 7~8巻

 悪役であることを自覚したアグニが、自分を殺す約束をした所で旧章は始まります。「負う男」、私は罪か過去かなと思ってます。過去に苦しみもがく、だから「旧」章かなと。

 アグニは偽りの平穏の中でも、過去からは逃れられません。ユダを見るたび、ドマの娘を見るたび、過去に押しつぶされます。そんな生活もアグニ教団の襲撃とともに終わますが、アグニはそれでもユダを求めてファイアパンチとして復活します。また、アグニは狂信と化したサンとの対決の中で初めて「生きたい…」と呟きます。その後、ユダが木になることでアグニの分まで贖罪をし、ひとまずの幕引きとなります。ユダが語る「人はなりたい自分になってしまう…」は、この作品を象徴するセリフに思います。


 その後アグニはサンの名を受け継ぎ、全く新しい人生を始めます。しかし、彼が「なりたい自分」になれていないのが「ずっと誰かを追っている気がするんだ」から分かります。彼は弟子から自殺出来る薬を渡されました、戦争が始まれば死よりも辛い苦痛が待っているからです。でも彼は死を選ばず、自分の半生を記録した映画を見て、再び拳を握ります。

 記憶も罪も全て忘れ去られた数千万年後、ユダとアグニは出会います。そこで、彼らは「サン」と「ルナ」と名乗り、一緒に眠ります。(何故ユダがルナと名乗ったのかは、ユダとしての人生130年の苦痛と、偽りでもルナとして愛された10年、そして「なりたいに自分なってしまう」という言葉を読み返して貰えればと思います。)


 この漫画はハッピーエンドかバッドエンドかすら、解釈が分かれそうですね。
 ついでに自分はハッピーエンド派です。根拠としてはトガタの説明と矛盾して彼らは映画館から席を立っていることと、この漫画において映画が象徴するのは死じゃないと思っているからです。


2. 比喩や象徴

 あるニュースを想像して下さい、ニュースの内容はホワイトハウスを背景に財政難とテロップが流れている映像です。おそらくあなたは「アメリカ政府が財政難なのかな」と理解していると思います。
 財政難というテロップには主語は書いてないのに、あなたはホワイトハウスはアメリカ政府の象徴であることに気付き、アメリカ政府という意味を読み取ったわけです。もしホワイトハウスがアメリカ政府の象徴であること知らない人が見れば、「どっかの豪邸の主が金欠なのか?」と読み取ってしまいます。

 こういう象徴や比喩を利用した表現というのは、象徴や比喩に気付かないと理解出来ませんが、ファイアパンチにもそういった表現があります。なので、まず象徴や比喩を使うかもしれないという前提で読もうという話です。

 今から見て貰うシーンは比喩を使った表現で、第1話、アグニが8年かけて炎に慣れ、復讐の為に故郷を出るシーンです。

 ここでは何故か荒野のど真ん中に、ルナとアグニの写真が置いてあり、アグニはその写真から自分の像を燃やしたようにも見えます。普通に考えたらこんな荒野に落ちているのは不自然です。カメラが簡単に手に入る世界でもありませんし。じゃあどういうことかと考えると、3巻の内容と繋がってくるわけです。以下の引用は、少年アグニの幻影が、アグニ自身に問いかけるシーンです。

「ルナが幸せに生きる事だけが俺の糧だったから
 ドマが残酷に死ぬことを、俺は糧にするしかなかった」

「だから俺は生きる為に…復讐者を演じるしかなかったんだ」

「ドマを殺してもルナが生き返るわけじゃないのに
 痛みをごまかす為に憎んで
 自分が演技している事を忘れてたんだ」

「本当のオマエはどんな奴だった?」

  上のセリフと、第1話の写真を繋げると見えてくるのは、写真はアグニの記憶の中にある人格の比喩であり、"本当のオマエ"(=ドマと出会う前の自分)を押し殺す比喩として、写真を自ら燃やすシーンを入れたわけです。

 3巻で"本当のオマエ"を取り戻そうとした矢先に待っていたのは、ベヘムドルグで関係ない人を殺し、ドマには教養がない正義は間違っていると論破され、自らが悪役である現実に気付くことです。
 正義とは程遠い現状からは、”本当のオマエ”にはもう戻れず、”主人公”という役割も失っています。
 また、ユダが木になる時にはアグニ教徒は全滅し、人々を救う"神様"という役割も失い、ドマを殺すことで”復讐者”としても終わっています。

 その結果が次に見て貰う写真が出てくる6巻のシーンです。全てを失ったアグニが、ルナが生き返ると妄想しながら、木にされたユダをタコ殴りにしています。


 アグニにとって、写真の自分こそ、”本当のオマエ”であり「なりたい自分」だと思います。
 この頃のアグニは、"本当のオマエ"からはかけ離れ過ぎました。もうその写真の頃の自分と、今の自分が同じだと思えないでしょう。また”復讐者”や"神様"といった役割も既に失っています。全てを失ったアグニ、彼は何者なんでしょうか。


 こんな感じで、象徴や比喩を読み取ってからじゃないと、それを利用した表現は理解できません。
 写真以外にも右手の拳が象徴だったりします。その上でドマを貫いたシーンなんかを読み返すと、発見があるかもしれませんよ。他にもあるので、是非探してみて下さい。



3.孤独の苦痛

 人間にとっての他人からの評価の重要性や暴力性は、司祭が語る「人は他人から評価されて、初めて自分が分かるのです」といった場面などで語られていますが、孤独についてはあまり書いていないように思ったので、ここで補足したいと思います。

 孤独に放りだされた人間がどうなるか、それを知る実験場と化している場所があります。独房です。


https://www.afpbb.com/articles/-/3009118 引用
 14日に米シカゴで行われたアメリカ科学振興協会の年次会合で研究者たちは、人間の精神は独房収容の感覚的、社会的な隔離状態に耐えられるつくりをしていないと述べた。

 ミシガン大学の神経科学者、フダ・アキル氏は、視覚刺激や対人関係、身体活動、日光などを奪われると、人間の脳は数日で構造が変化すると指摘。一方で「触れ合いなど肯定的な感情を伴う体験をすると、脳内物質がポジティブに活性化する」が、こうした重要な刺激を人間から奪うことは危険を招く恐れがあり、脳の多くの構造を縮小させると説明した。

 カリフォルニア大学サンタクルーズ校のクレイグ・ヘイニー教授によると、米国で独居房に収容されている受刑者の約3分の1は、精神疾患を患っている。収容前に精神疾患がなかった受刑者の多くも、厳しい独房環境から不安神経症やうつ病、衝動抑制障害、社会恐怖症などを発症する。また、孤独感から幻聴が生じるようになる人もいる。ヘイニー教授は「社会的接触を奪われると人間は自己感覚を失う」と述べた。

 19世紀、何十万人もの受刑者を独居房に収容する大規模な心理学実験が行われた。隔離によって自己の内面と神に向き合い、更生を促す試みだったが、まもなく多くの受刑者が正気を失うことが明らかになった。

 それにもかかわらず独房収容が現在でも広範に行われているのは、暴力を振るう受刑者から刑務官を守る最も簡単な方法だと考えられているからだ。ヘイニー教授によると、米国では1970年代後半から独居房の使用が広まったが、当時の刑務官たちは、独居房が受刑者に与える悪影響を十分に認識していたという。


https://plantseeds.exblog.jp/11270139/  引用
カルフォニア大学のクレイグ・ヘイニー心理学教授は、カルフォニアのペリカン・ベイのスーパーマックスからランダムに選んだ受刑者100人を調査するまれな許可を得た。スーパーマックスとは、危険度が最も高い受刑者用を最高レベルで管理する刑務所だ。

 まず、何ヶ月または何年もの完全な孤立を経ると、受刑者はいかなる行動も起こせなくなってくる。活動と目的を持って自分の生活を組み立てることができない。その結果、慢性的な無気力、倦怠感、鬱、絶望を生ずる者が多い。極端な場合、行動というものをやめてしまう。

 そして独房の受刑者の約9割が、理由なき怒りに悩まされる。普通の受刑者では約3割である。独房の受刑者の多くは復讐の妄想にとりつかれる。
アイデンティティは社会的に作られるものだ。人との関係で自分が母親や父親、先生、会計士、英雄、悪党などであると認識する。何年も独房にいると、自分は主に刑務所の管理を妨害する者の役割だと思うようになる。

 多くの受刑者は、運動したり、祈ったり、脱獄の計画を立てたりして孤独を切り抜ける。例えば頭の中で板一枚一枚、釘一本一本を思い浮かべながら、家を土台から建てたり、ある野球シーズンの出場選手を全部思い出したりする「精神的練習問題」をやったりする者も多い。孤独に対処する「資源」を自分の中に持っていない者は、ひすら怒鳴ったり暴れたりするしかない。

 ロバート・フェルトンという受刑者は手錠をはめられていても隙さえあれば職員に暴力を振るい、ドアの隙間から食べ物を投げ、マットレスを引き裂いて電球の電熱線で火をつけ、何度も独房で火事にを起こしたりした。独房の備品が取り除かれると、しまいにはトイレを詰まらせて汚水を溢れさせた。彼は南イリノイにできたハイテク・スーパーマックスに移される。そこでは看守との接触すらほとんどなく、遮断弁があるため、「洪水作戦」も使えなくなった。肯定的・否定的に関わらず、人からの「反応」を引き出すことができなくなってしまうと、彼は精神病に陥った。

 
 また孤独は、独房の様な物理的隔離だけで起きるわけではないです。誰かと喋り、肯定的に扱われたとしても、孤独は生まれます。
「いつもいい人を演じる優等生が、みんなとそれなりに上手くいってても、どこか孤独を感じている」
 なんかがそうです。むしろ、演技した自分が肯定的に扱われる程、相対的に演技しない自分に価値を感じれなくなる、なんてことも起こったりします。ファイアパンチでも演技していたことを明かしたキャラが居ますが、彼らの孤独を、是非想像してみて下さい。

 ついでにスキンシップの重要性についても書いときます。孤独から人を救うのは言葉だけではありません。誰かと抱き合った時の暖かさや、柔らかさでも人は救われます。その話をするにあたり、ちょっと実験の話をしようと思います。

 ハーリー・ハーロー アカゲザルの実験

 実験が行われたのは1958年、まだ乳児の死亡率が高かった時代です。また感染症に対する知識も一般化してきて時代で、「赤ちゃんに病気を移さない為にも、母親と赤ちゃんの接触は最小限にすべきだ」という意見が出てきました。それに異を唱えたのが、この実験を行った科学者ハーロー。「母親と赤ちゃんの情緒的な結びつきは、スキンシップも重要なんだ」という証明をしたく、この実験を行いました。
 
 実験の内容は、針金で母猿を模った人形を作り、一方には哺乳瓶を取り付け、もう一方にはやわらかい布と人肌に温めるヒーターを取り付けました。そして、二つのお母さん人形を行き来出来る部屋を用意し、アカゲザルの赤ちゃんを放したらどちらを選ぶのかを見る実験です。

 実験が行われた当時の常識では、食料を与えてくれる方に懐くと思われていましたが、結果は布とヒーターの人形を選びました。こうして、コミュニケーションにおける皮膚感覚の重要性が見直される契機が生まれた、とされています。

 また、針金か布どちらかだけで育てる対照実験では、どちらも成長した後に精神異常が見られましたが、布の人形で育てられた猿は、針金の人形で育てられた猿の様な異常な攻撃行動や自傷行為が見られなかったそうです。


 ファイアパンチでも、ユダがアグニ教団に連れ去られ(7巻)、アグニは誰も殺さないアグニのまま生きるか、ユダを取り返すファイアパンチに戻るかを迫られ、過去を回想します。その中でアグニは「すごく、暖かったんだ…」というセリフが思い起こします。業火に焼かれた彼がです。彼の心はこの一言に集約されていると思います。(僕が一番好きなセリフです)


補足
「冷たい~温かい」は舌や指先など「体の一部」が何かに触れて感じるもの
「寒い~暖かい」は主に「体全体」で感じるもの
体が触れ合うあたたかさは、通常「温」を使います。しかし、アグニは「暖」を使いました。



長いので、ここで分割します
後半は こちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?