母の話その3

色んな人と話していくとたまに家族の話になり、母親の話題を振られ「もう亡くなってるんですよー」と伝えると、大抵は「あぁ...ごめんなさい、変なこと聞いて」と謝られることが多い。自分に限って言えば全然変なことではないし、むしろ話せる範囲ならなんでも話せるスタンスである。

以前mixiでその当時のことを書き出していて、自分の気持ちを整理しつつ励ましもたくさんいただけたことは今でも感謝している。ちょうど今日その話題も出たこともあり、noteでも書き出してみようかなと思う。


事の起こりは2010年の夏。母が検査入院しに札幌へ行くという連絡が来た。札幌へ行くというフレーズだけでも嫌な予感はした。釧路では検査出来ないくらいの何がしがあったのだろうと。その後間も無くして、すい臓癌が見つかった。初期段階だから手術すれば大丈夫だと。

恐らくその時点で母は長くないのだろうと受け入れていたと思う。すい臓癌と聞いてすぐにネットて調べてみたが、どのページを見てもあまりいいイメージで書かれてはいない。術後の経過が良く快復された方もいるが、それでもほんの一握りである。

幸いにして?なのか、たまたま母が新聞に掲載されていたすい臓癌についてのコラムを読んでいて、初期症状(脇腹の痛み、体重減少あたりだった気がする)があまりにも合致していたので念のため検査しに行ったら、ということもあったので発見は早かった方なのかもしれない。故にその時はもしかしたら大丈夫なのかもしれないという希望もあった。

その後も放射線治療など月に1〜2回は札幌へ通院するくらいなかなかハードな治療を続けていた。その大半は父が車で送り迎えしていたくらいなのでなおのこと。(札幌釧路間は特急列車で4〜5時間)

秋冬は自分か仕事で忙しくなっていたのであまり実家に帰省する機会は無かったのだが、帰省するとよくわからない海外製のサプリやら取り寄せたり、1階の客間に寝室を移動させたり、母が少しでも楽に過ごせるようマッサージチェア的なものも買っていたりで父は日々奮闘していた。

年明けも進行状況は逐一連絡を取っていたが、一進一退という感じであった。母があまり病院が好きではない性格(嫌いということではなく、気を遣われるのが好きではないので父だけにそういうところを見せるにとどめたかったことらしいのだが)のため基本通院も最低限にして在宅医療をメインにしていた。時同じくして父は会社を休職し、ほぼ24時間母に付き添って介護に専念した模様。

その一報を聞いて、自分も仕事がややひと段落したこともあり、会社休職して少し帰省して手伝おうか?と話したことがあったが、父は頑なに断った。

「これはお父さんとお母さんの問題なんだ。お前はたまに顔を見せに来るくらいでいいんだよ」

初めは素っ気ないものだなとは思ったが、父と母がそう決めたのならそれに従おうと。子どもにはわからない、立ち入れない、夫婦だけの絆のようなものがあるのだなと。それでも心配なので何かあったらすぐに連絡するようにと釘は刺しておいたが。

そして忘れもしない東日本大地震が起こり、周りの環境が一変した。ライフラインもままならず仕事も開店休業状態が続く不安定な日々。1週間ほどして少しずつ落ち着いてした矢先に父から電話があった。

「母さん、ちょっともう厳しいみたい。今日、お医者さんと話したんだけど、後3ヶ月じゃないかってさ」

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