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15年振りに父と会ったレポ

 父と最後に会ったのは小学2年生の夏。のはず。
 それ以来一度も会っていない。

 その娘が23歳になり、ふと思い立って15年振りに会ってきた。
 その場のノリから始まった、人生に一度のちょっとだけ珍しい体験のレポ。


後ろ向きに覗く

 そもそも父と母がなぜ離婚したのか、私は知らない。
 母が「借金だけはするな」と口うるさくなったのはこの頃からだったように思う。
 なんかやっちゃったんだろうなぁとだけ幼心に留めた。

 母と母方の祖父母と暮らす日々を20年過ごしていたので、正直両親の離婚に関して特別思い悩み苦しむことは無かった。だって「父」に思い出がないから。

 ただ「父がいない」ことへのコンプレックスは少なからずあった。
 有難いことに授業参観は毎回母が来てくれていたが、後ろに並ぶ大人はみんな母より大きな男の人ばかり。
 「お前んち、授業参観お父さんじゃないんだね」
 恐らくなんの悪気もない一言がえらく心に刺さった覚えがある。なんて切り返したかも忘れたが、「いないんだよね」とは言えなかった。
 片親への風当たりの強さは、間違いなく今より強かった。

 私を育ててくれたのは紛れもなく母、そして家に20年間居候させてくれた母方の祖父母である。別に父は私を育てていない。金銭面での支えは少なからずあったのかもしれないが、それがなくても生きてはいただろう。きっと逆なら死んでいた。

 だから祖父母の実家で過ごした15年弱、私は父方の人間とのコンタクトを積極的に取れなかった。
 勿論面倒だったのもあるけど、中学まではなんとか季節の手紙に返事を書いていた。それも、高校に入ったタイミングでもう全部ダメになった。
 母も時々、「会いたいなら会ってくればいいよ」なんて口では言っていたが、話題にさえ出したくなさそうに言うもんだからかえって悲しくて気まずかった。

 祖父母同士は連絡を取っていたようで、時折時候の挨拶のハガキや近況を綴った手紙を見せてもらった。顔を見せて欲しい、なんて文字も見えたけど、それに呼応する気にはなれぬまま歳月が過ぎてゆく。

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 月日も過ぎれば場所も変わり、東京で一人暮らしを始めた。熟成20年の田舎者が上京したのにはいろんな理由があるけど、何より私を引き寄せたのは新しい何かを見たい好奇心だった。

 そんな折、ふと父方の祖父母のことを思い出した。実家からの荷物に勝手に入れられた手紙には、「大学卒業おめでとう」「東京に行くんですね」の文字。
 東京に行ったのは知っているみたいだけど、住所一つさえ教えてはいない。ここで私が何もしなければ、完全に縁を切る事が出来る。

 何もしなければ断ち切ることができたのに、気づけば7年振りに筆を取っていた。何を書いたかは覚えていないけど、封筒とポストに何かを託した。

 そこから数回のやり取りの末、今年の夏「会わないか」という話になった。


 正直、まあ死ぬ前に1回会っとけばいいか、くらいには思えるようになっていた。多分もう、これ以上に何かは思えない。私にとっちゃ父親一族はもう他人だった。
 父親をなんと呼べばいいのかも分からない。

 会わぬ後悔より会う後悔。会って「嫌だなぁ」と思うのならば、父から隔絶された私の人生は正解になる。

「お盆、会いに行きます」

 自分で答えを出そう、きっとそう思っていた。


もうひとつの地元

 駅から最寄りホームに降りたった瞬間、鳩が目を開けて死んでいた。夏の暑い日、なんだか衝撃的でぐるぐる考えていたことが一瞬でどうでも良くなってしまった。

 改札を抜けてすぐ、祖父母と思しき人影が見えた。ぱちりと目を合わせた瞬間、「ああ、やっぱり  すぐに分かった!」と懐かしいような気がする声。15年経ってもお互い直ぐに分かるもんなんだな、と少しだけ驚いた。

 なんだか2人とも随分小さくなった、なんて思ったけど、よく良く考えれば私が大きくなっていた。
 祖母は涙をボロボロと零し、「よく来てくれた、よく決心してくれた」と何度もお礼を言った。決心というか、避けていただけの私。何も返せなかった。

 その影でこそり、中年の男性がおずおずと顔を覗かせている。
 少し離れた所から、少しだけ気まずそうな雰囲気を纏っていた彼。私のたった1人の父親だ。

 祖父母と違い、父の顔は見ても分からなかった。なんかもうちょっとカッコよかった気がするけど子供の目の補正かもしれない。
 上手く認識できなくて、ぱちりとまばたきを1つ。涙袋がそっくりだなぁと思った。

「わかる?」
 そう聞かれ、うん、当たり前じゃん、と答える。
 分かるけど認識を拒んでいた脳みそを一旦寝かせて、皮だけの言葉を浴びせる。
 15年振りに会った人に対して、掛けたい言葉のひとつも出てこなかった。私も薄情だ。



大発見祭り

 祖父母宅の光景は鮮明に覚えていた。トイレや風呂はリフォームされて綺麗になっていたが、なんとなく風景も匂いもそのままだった。
 茶を立てるための専用茶室、ししおどし、長い縁側。普通より幾分か豪勢な5LDK平屋建て。

 家を歩きながら僅かな思い出を探したけど、これといって心が開くような何かは探せなかった。

 その代わり少しだけ、彼らのことを知ることが出来た。

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①酒が飲めない理由がわかった


 母一族は酒豪の集まりで、盆正月の夕時にはビールも焼酎もあるだけ開けて全員が寝落ち、という伝統芸が幼少の頃から続いている。

 そんな中、ほろ酔い2口で酔いが回る私だけ輪の中で1人お茶を啜っている。帰省すると皆はビール、私は何故か用意されているモンエナで乾杯。ちょっと寂しい。


 昼時に差し掛かり、「何飲む?ビール?」と聞かれ、「や、私お酒全然飲めないんよ」とおずおず申告。
 子供と(孫と)お酌なんてちょっとした夢やったやろうなと邪推したのも一瞬、「あら  お父さんに似たのね」。

 隣で父が「俺も酒飲めない」という顔、その後祖父を指さし「じーさんも酒飲めない」と紹介。びっくり。

 母方の男系は余すとこなく九州男児で、盆正月は潰れるまで盃を交わすような親戚ばかり。酒を好まないオジサンを見たことがなかった。

 そんな中、なんで酒豪一家で私だけ酒飲めないんだ。実は橋の下で拾われた子なのか?(母にこのネタでよく脅されている)といった3年間の疑問が、もうひとつの家系からの遺伝という形で決着が着いた。
正直これはちょっと嬉しかった。

 ちなみにだが、お昼は全て祖母の特製ご飯だった。なんと豆腐も祖母手づくり。とっても美味しかった。

量が旅館の晩飯


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②いとこがいた

 いつだったか、フォロワーとの通話中に「いとこいないんだよねぇ」と申告した覚えがある。
 私が一人っ子、母の弟夫婦は子供がいない。だから、いとこいないんだなぁと当たり前に認識していた。

 いた。

 まず父に弟がいた(新情報)。
 父弟夫婦には2人、現在高校生と中学生の女の子が産まれていた(新情報)。
 しかも祖父母宅から徒歩3分の所にマイホームを建てて住んでいた(新情報)。

 午後からは初対面のいとこ家族達ともテーブルを囲み、初対面らしい空気を醸しながらも団欒を楽しんだ。

 いとこ(姉)と私は結構似ていた。
 特に顔の中心で前髪が割れる所。
 顔もまあまあ、言われてみれば....と言った感じだが、父は「鼻の形が全員お揃いで感動」と言っていた。いとこ(妹)と私は鼻の形以外はそんなに似ていなかった。

 いとこ(姉)は本当にしっかりしていて、進路も将来を見据えて綿密な計画を教えてくれた。概算でも私より3倍しっかりしていた。現代の若者!といった格好をしていて、小洒落た子だった。徒歩3分の道のり(しかも車移動)のためにハンディファンも持ってた。

 いとこ(妹)はサメだった。
サメのフードを深々被って登場したため、「サメに食べられてる方が妹」と紹介された。実にパンチの効いた初対面である。

 私は相手に話題を振って会話を始める能力に欠けているので、いとこ同士の会話は弾まなかった。
 右から15年振り、15年振り、初対面、初対面、初対面、15年振り。いや、能力があってもキツかったかもしれない。

 しかし、従兄弟のお父さんがふと「妹ちゃんの方はなんだっけ、VTuberが好きなんだったかな」と話を切り出したからさあ大変。私がスマホのロック画面にしていた画像を差し出したことで、私といとこ(妹)ちゃんだけ急速に意気投合した。


 妹ちゃんは箱推しらしかったので、宗教戦争が勃発することも無くガチガチに2時間喋り倒した。
 その後、途中合流した従兄弟のママさんに何故か私の最推しの話をすることになった。しこたま冷や汗をかいた。

 話も落ち着いた頃、昔のアルバムを見せてもらった。
 洗濯物を全てひっくり返したり、与えられた食事に全力で顔をしかめるレジスタンスな赤子(全て私)が収められており、まあ既に立派な極悪人だなぁと微笑んだ。

 そんな中、いとこ(姉)が「えっ  怖い  似すぎ」と言いながら、自分の赤子時代の写真を差し出してくれた。

左がいとこ   右が私

 えっ  怖い   似すぎ


感情エトセトラ

 一日中、たくさん喋った。お互い少しだけ気まずかったのかもしれないけど、場を持たせつつ朝から晩まで喋っていた。生きた心地がしなかった。そんな中で、頭に染み付いた気持ちだけ書いておく。

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「いとこ達は2週間前も俺んちに泊まりに来てたよ」という父の言葉。

「○○に遊びに行ったよ」、「○○の写真だよ」と無垢な顔して思い出を出してくれるいとこ達。

 親子である私達にはこれっぽっちも無い思い出を、父といとこはたくさんたくさん持っていた。
たくさんたくさん教えてくれた。
 父親との間に勝手に私が建てた心の壁も、父といとこの間には僅かとて無い。

 楽しそうだね。
 私の人生ではついぞ得ることのない、父との思い出。

 いいな、とは別に思わなかった。
 私には無いな、とだけ、ぽつんと心に浮かんだ。


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 私との思い出を父が語らなかった訳では無い。私と時々会っていた7歳頃までの思い出を、これでもかと教えてくれた。
 でもそれを、私は何ひとつとして覚えていなかった。
 ちょっと怖かった。私がもうもう覚えていない思い出を、「貴方が今も大切なんだ」と溢れんばかりに言われているようで怖かった。知らない自分を大切にされても、私からは気まずさしかない。

話せば話すほど、この人たちは他人なんだって気分に襲われた。ただ少し交流があっただけ、今はもう他人。
 知らない家庭の幸せな昼下がりに少しお邪魔しました。そんな楽しくもぎこちない、なんとも言えない他人の洗礼を浴びた1日だった。

 育ててももらっていない「父」という人物から父親面をされる感覚は実に不思議だった。 血が繋がった唯一の父親、そしてただ血が繋がっているそれだけの人。
 ひねくれている気もしている。
 結局最後まで、私は父への感情を上手く言語化出来ずに帰路に着いた。もやもやと、無意識に暴食した後みたいな感覚。消化不良でお腹いっぱいになった。


"またね"

 帰り際、父と何気ない会話をした。
「お母さんと喧嘩とかするの」
「時々  一人暮らしする前はよくしてたけど」

「ふ、お母さん気強いもんね」

 あ、そっか。
 父は母を知ってるんだ。

 父が母をよく知ってるのは当たり前のことなんだけど、それでもこれにはひどく感動した。
 少しだけ、母の世界が勝手に広がったように感じた。

 家のすぐそばまで送ってもらう。
 「これより先に行くと怒られちゃうからね」、なんて言って車を停めた。

 「じゃあ、またいつでも連絡してよ」
 「うん、またね」

 口ではそう言った。

 本当は何を思っていたんだろう。

 上手く言葉に表せない自分がもどかしくて、でも答えを知る術も無いから目を逸らす。

 もう、いっかな。
 お土産にもらった葡萄を振り回しながら背中に見る夕焼け空。私が彼らと真っ直ぐ向き合って喋ることは、多分もうできない。
 多分行動を起こすのが遅かったし、最適解が見つけられる気がしなかった。みんな全員幸せになる結末があるのなら、そもそもこんな経験せずに済んでる。

 いやになるくらい疲れ果てた、8月18日。


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