Get out (of here)

2021年7月23日、PitaことPeter Rehbergが亡くなったことをINA GRMのTweetで知ることとなった。

活動初期から彼の作品をチェックし続けてきた一人として非常にショックでしばらくは何も手がつかなかった。
そして、直接の面識があるわけでもないアーティストの訃報に自分でも驚くほど動揺している数時間の間に世界各地から彼の死を悼むTweetが流れていくのをただ追いかけていた。

今まで自分は音楽について何か文章を書きたいと思ったことはほとんどないが、自分のとって大きな存在であったPeter Rehbergについて思うことを書くことで、自分の気持ちを整理すると共に彼への追悼としたい。

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なお、これから書くことは20年以上も前になることなので記憶違いなどがあるかもしれない。
もし事実誤認の箇所があれば、ご指摘いただければ幸いである。
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ディスコグラフィを調べれば、General Magicとの共作である“Live And Final Fridge”がPita名義での1stリリースとなるが、日本で彼の作品が知られることになった作品といえば、やはり1996年にリリースされた1stアルバムの“Seven Tons For Free”となるだろう。
私も輸入レコード店にて同作を入手した。
“Seven Tons For Free”はパルス音が絶妙にパンニングされ、佐々木敦氏が言うところの接触不良系の電子ノイズが現れては消え、デジタルな質感のドローンが収められた奇作で一聴してそれまでのアンビエント、テクノ、ノイズ、電子音響作品とは一線を画する作品であることは明らかだった。

佐々木敦氏は“Seven Tons For Free”と“Panasonic ‎– Vakio”、“Ryoji Ikeda ‎– +/-”の三作を新たな時代の代表作として挙げていたが、改めて、簡単に当時の状況を振り返ってみたい。

欧州圏では、1993年に“Un Peu De Neige Salie”をSelektion(ドイツ)からリリースしたBernhard GünterがTrente Oiseaux(ドイツ)の運営を開始したのが1995年。

Achim WollscheidとRalf Wehowskyが運営するSelektion(ドイツ)も2001年頃まではリリース・ペースを落とさず、活動を継続していた。

Touch(イギリス)、Staalplaat(オランダ)、Mille Plateaux(ドイツ)などは傘下レーベルも含め、様々な作品を盛んにリリースしていた。

アメリカでは先に挙げたBernhard Günterの“Un Peu De Neige Salie”を再発(ライセンス・リリース?)したTable Of The Elementsも勢いがあった。

そして何といっても1996年といえば、“Gastr Del Sol ‎– Upgrade & Afterlife”がDrag Cityよりリリースされた年である。
*個人的な感想であるが、“Upgrade & Afterlife”は20世紀のアメリカ音楽の墓標であり、『ゴダールの映画史』と並ぶ、文化史の総括の一つであると
考えているが...これに関しては話が長くなり、脱線してしまうのでの今これ以上の言及はしない。

先に挙げた佐々木敦氏の三作についての言葉や印象を否定するつもりは全くないが、私にとって、1996年における音楽の一大事は“Gastr Del Sol ‎– Upgrade & Afterlife”と“Pita ‎– Seven Tons For Free”のリリースだった。

“Upgrade & Afterlife”を聴くことは、20世紀のアメリカ音楽の総括であると共に、一つの音楽史の終焉を目撃するかのような気分に浸ることであった。
そして“Seven Tons For Free”を聴くことは、デジタル・テクノロジーによる新たな音楽・音響の時代の到来を感じることであった。
大袈裟に思われるかもしれないが、それは音楽の転換点として大きな出来事だったのだ。
これは私だけでなく、同時代に生まれ、同じようなリスニング体験を経た人たちなら誰しもが感じたに違いないだろう。

いささか当時の状況を振り返ることに字数を使ってしまったが、話題をPitaや初期のmegoへ戻したい。

Ramon Bauer、Andreas Pieper(General Magic)たちより少し遅れて(?)1995年からPitaはmegoの運営に参画するようになった。

2000年くらいまでmegoからはFennesz、Farmers Manual、Hecker、General Magicらのリリースが続いた。
DSPソフト、グラニュラー・シンセシスによるデジタル・ノイズを基調に、叙情的なFennesz、ハッカー的なアイデアをベースにしたFarmers Manual、思弁的なHecker、諧謔的なGeneral Magic...
その他にもバラエティ豊かな作品群は、私の耳に刺激を与えてくれた。

その中でも1999年にリリースされた“Pita ‎– Get Out”の衝撃は私にとって決定的だった。
それまでにmegoからリリースされてきたどの作品よりノイズへ大きくシフトした作品でこれまでにmegoとEditons Megoからリリースされた作品の中でも聴き返した回数は一番多い作品となった。

何度も“Get Out”を聴くうちに、ラウドなノイズが炸裂する前に微弱で繊細な音を配置していたこと、極端な高音と低音の使用、唐突に曲を終えることで曲間の間を上手く利用していること、“Seven Tons For Free”と同様の絶妙なパンニング、ループしたりループしなかったりする歪な電子音など今でもその構成の妙に感心する傑作である。

“Get Out”に収録された音源は世界中の都市で行ったlive演奏を再編集したものであるが、当時の彼のliveはラップトップ1台のみによる演奏だった。
以下はNTTインターコミュニケーション・センターで行われた演奏の記録動画である。

今日、ラップトップだけで演奏することは何ら珍しいことではないが、彼はその先駆けであった。
今となっては馬鹿馬鹿しい話だが...かつてはサンプラーやターンテーブル等は楽器か否かを問われる存在だった。
そして同様のことがラップトップを演奏するということにも問われた。

当時の彼の音源を聴き、liveを観たことがあるものなら理解できると思うが
演奏に使用するものが楽器か否か、あるいは演奏における身体性の有無に関する批判以前に、音楽(音響作品)とはその場で出ている音や再生される音が一番重要なのだとということを納得させる強度のある音が放たれていた。

繰り返すが、その強力で多彩な音響はラップトップ1台から出力されていた。
このことはSex Pistolsが稚拙な演奏で登場した時と同様(?)に『自分にもできるかもしれない』という想いを多くの人に抱かせ、数多のフォロワーを産むことになった。
つまり彼は多くの人へ可能性を開示したのだ。

時にPitaがパンク的と評されるのは間違いなく上記の様子からだろう。

初期のmegoではコンピュータ・オリエンティッドな方向性を打ち出していたように感じたが、Editions Megoとしてレーベルを再起動してからは広義の電子音楽の可能性を拡張していく方向へシフトしたように感じた。
PitaとStephen O’MalleyとのユニットであるKTLもその一例であり、次々と立ち上げれた傘下レーベルからも魅力的なタイトルの発表が続いた。
後進に影響を大きく与えることになったOPN、EmeraldsやMark McGuire、Prurient(Dominick Fernow)、Lorenzo Senniらのリリース。
Pitaが強く影響を受けたであろうDOMEやBruce Gilbertの再発とGraham Lewisに新たな作品リリースの機会を与えたこと。
盟友とも言えるThomas Brinkmann、Marcus Schmickler、Oren Ambarchi、Mark Fell、Ilpo Väisänen、Mika Vainioらが関係する作品のリリース。
Stützpunkt Wien 12(Alex Müller = Elin)のリリースがあったものの初期のmegoからは想像し難いダンス・フロアへの接近ともいえるSendai、Voices From The Lake、Donato Dozzyの関連作。
アジア圏(?)からは、Yasunao Tone、Tujiko Noriko、ibitsu、Ai Aso、Okkyung Lee、Merzbowの関連作。
megoからの長い付き合いであるFennesz、CoH、Kevin Drumm、Hecker、Russell Haswell、Evol、Jim O'Rourkeら。

そして何といっても、Recollection GRMのリリースが開始された時には驚いた。megoの頃よりINA GRM(もしくはIRCAM)関連のイベントで演奏する機会が何度かあったように記憶しているが、François Bonnet(Kassel Jaeger)との共同とはいえ、オルタナティブな電子音楽レーベルが電子音楽の正史に接続されるだけでなく、その歴史の検証を行うまでに存在を大きくしたことに驚きを禁じ得なかった。
近年、Portraits GRMというシリーズが始まったのも同様に興味深い出来事だった。

以上のことがPitaことPeter Rehbergのなし得たことである。
勿論、ここに挙げることができなかった活動もあるが、彼の約25年に及ぶ広範囲な活動を仔細に辿ることは、この四半世紀の電子音楽の潮流を辿ることと同義であることは想像に難しくない。

人(生物)はどうしたって死に至る。
病気での余命宣告でもない限り、死は突然なものだ。
Pitaの訃報を知った時、私が思い出した記憶の一つが、2000年の“Büro30: electronicaccident”という東京でのイベントだった。
初日のプログラムの最後にPita、Hecker、Merzbow、Cyclo.(池田亮司 + Carsten Nicorai)らに大勢のアーティストが加わりLap Top Orchestraによる演奏が行われた。
多分、事前の打ち合わせなしに行われたであろう、その共演は混沌を極めた。
果たしてどのようにこの合奏を終えるのかと思った頃、(私の見間違いでなければ)自身のラップトップがフリーズしたであろうPitaが壇上にあったミキサーのマスターをナイフで切って落とすかのようにカットアウトし、幕となった。

その夜のステージで複数のアーティストと共に放たれた混沌とした音塊は彼の充実した活動歴に似ていたように思う。
そして、半ば強引に終えられたそのステージの結末が彼の突然死に重なったのは言うまでもない。

願わくば、Peter Rehberg亡き後も傘下のレーベル・ディレクターたちの共同によってEditions Megoというレーベルが絶えることなくこれからも続いてほしいと思うと同時に、今夏は彼が在命中にリリースしてきたmego関連の音源を聴き込むことで私的な喪の作業にしたいと考えている。

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