見栄を張っている話

昨日の夜にシャワーを浴びていたら、ふと思ったことなんですけれど、見栄ってどのレベルまで見栄ではなくなるのでしょうか?

僕なんかは今まで21年間生きているんですけれど、見栄とか虚勢を張って生きてきたわけなんです。でも、1度でも見栄を張ってよかったなって思えることが無いですね。

例えば、僕が小学生の時に、自転車に乗れなかった事を同級生にからかわれて、悔しくて悔しくてしょうがなかったです。ある時、また自転車の事で言われて見栄を張って、乗れると嘘をつきました。案の定自転車に乗れるわけがなく、ケガをしてしまいました。その時に見栄を張るのは良くないなと思いつつ、小さな見栄を張ってしまう自分がいます。

小さな見栄というのは、たぶん自分が「あの時こうしていれば、こうなっただろうな」とかの見栄です。例えば、僕が高校生の時に、同級生から「彼女居たことある?」と聞かれた時に、僕は「中学の時に居たことあるよ」と小さな見栄を張ってしまいました。もしかしたら小さな見栄ではないと思う人もいるかもしれないですが、僕にとってそれはあり得た事であり、小さな見栄です。それは、僕は中学生の時に彼女が出来そうだな、というか僕の少しの勇気ある行動で彼女を作ることが出来たという可能性があるから小さな事なんです。おそらく、そこには後悔が残っていて、行動してればよかったなという願望なんだと思います。ただ、見栄を張ってもばれる人にはばれるものですから、見栄なんて張らないほうがいいと思います。

僕にとって大きな見栄とは絶対にありえないことに対する嘘です。僕は小学生の時に自転車を持っていなかったし、練習する機会がなかったわけですから絶対に自転車に乗れるわけないんですけれど。一方で、高校生の頃の話は僕自身の行動次第ではあり得た可能性があるから、小さな見栄なんです。

ここで見栄とか嘘に大小ななく、張る事吐く事がいけないというそもそも論を思う人は、そのまま生きていいと思います。確かに、いけないことだと僕でも思いますし、そんなの小学生でもわかると思います。でも、見栄を張って生きてきた僕からすれば見栄にも嘘にも大小はあるし、僕は常に予防線を張りながら生きる以外の方法をしらないですから。だから、正論じゃなくてこんな生き方もあるんだなと思っていただければ幸いです。もちろん、自分の生き方を正当化するつもりなないです。高校の時に見栄を張ったことだって結局はバレましたし、人の名前とかは絶対に出さないですし。

でも、大学に入学してからは見栄を張る回数が減ってきたなと自分でも感じることがあります。もちろん、張ってはいますが。

それでも、見栄を張ってしまうのはなぜなんでしょうか。僕の場合やっぱり幼少期の経験からだと思いました。僕は幼少期の頃から身長が小さいためか、同級生にもからかわれますし、友達からもいじめられますし、あまりいい経験がないですね。家に帰れば兄がゲームでマウンティングを取ってきますし、とりわけ僕はゲームが上手なわけではないですし。僕は割と一方的なやられ役だったのかなとか今考えると思いますね。そんな環境だったから、僕は見栄を張って生きてきたのかもしれないですね。もちろん、原因はそれだけではないとは思いますし、僕個人としても環境のせいにはしたくないです。言わゆる自己責任論で切り捨てられると思いますけれど。ちなみに、僕みたいな生き方をしていると、人のご機嫌取りばかり上手くなっていきますね。

話かなり逸れてしまいましたけれども、見栄ってどのレベルまで行くと見栄ではなくなるんでしょうね。僕もいつか、自分の見栄が見栄でなくなるような生き方をしてみたいなと思うばかりです。

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