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塵芥

学校からの帰り道に、壺の中を泳ぐ金魚を見た。金魚を飼うのもいいかも知れない、と思った。私は犬が好きだった。本当は犬を飼いたかった。ずっと、自分の生活もままになっていないような私には、動物を飼うことは難しいだろうと思っていた。それでも、私は言葉を向ける必要のない友人が欲しかった。言葉もなく、何もわからないままに私を慕う友人が欲しかった。金魚はいいのかもしれない。立ち止まった後、10歩ほど歩いた頃に、私はまだ飼ってもいない金魚の死に脅えた。きっと私より早い日に、その金魚はいつか死ぬだろう。その寂しさに私は耐えられるだろうか。元から、金魚のいない今の日々は寂しいのかもしれない。結局、私は金魚を飼うのを見送った。私は縋る過去を増やすくらいよりも、苦しみながら今を生きる安楽をとったのだ。何かを手に入れるとそれを失う悲しみが裏にはあることを知っている。愛するものを手に入れると、失う悲しみが追随することも同じで知ってるし、私は昔からそういう臆病な人間だった。

こんな人間に「幸福」なんてものは無いのだろう。その喪失を恐れるために高揚を望まず、安楽のみを望む。私は不幸を嘆くが、その安楽な生活に横たわりながら、不幸の粗探しをしているだけに過ぎない。幸福を求めるのは苦しいが、粗探しに不幸を見つけるのは簡単だ。私の人生には、ニキビを掻きむしった時の鈍い痛みがあるだけだった。


私の一番になりたがる女の子がいた。私を一番大好きで、私にも一番大好きでいて欲しかったらしい。私が他の女の子と遊んでいたら、その女の子に虐められていると、嘘を親の間で流した。よくもそう非道で下品なことが出来るな、と思う。他者と比べて自分が一番になろうとしても、どん詰まるだけだ。仮想敵を増やして息苦しくなる。一番という考え方を用いるなら、自分を常にこれまで一番の状態に保つことが、何よりも大切だと私は思う。過去に比べてより良い自分でありたい。常に最高は今の自分でありたいな、と常々思う。


私のことをなんでも知りたがる女の子がいた。彼女は何をするにも、私に付く。小学校3年生の時に連れションしてたら、私はトイレを覗かれた。彼女は私のパンツの色を見るために、トイレの隙間を覗いた。全てをわかった気分になんてなるもんじゃないんだ。全てを知ろうとするなんで傲慢だ。何もわからないまま愛して、家で一人で懊悩してしまうくらいが恋愛は面白い。

デジタルカメラを買った。私が生まれた2001年に販売されたデジタルカメラを。写真を撮っても、写る視界は2021年を生きる私にはどうも不鮮明すぎる。けれど、私はこの写真を、君に見せる。君に見せる写真は不鮮明なくらいがいい。全てを知らないくらいが丁度いいのだ。君に届くな。

自分に深く興味を持つ人間が苦手だった。私の心の中を覗こうとすることで、私の心の中にいる処女の神話性が奪われてくみたいで気持ち悪かった。

私は自分に無関心な芸術を愛していた。口を聞かない芸術が愛おしかった。私が何も話す必要も無いままに、彼は私を抱き締めてくれるのだ。それは海に抱きしめられる感覚に近い。寛大な愛が芸術にはある。


私はいつだって美しく死にたかった。私を汚したのは、君たちだろう。私はいつだって、芯から心が綺麗で優しく美しい女の子でありたかった。嫌いなあの子と喋った日の夜に、私の頭は水色を黒に染める。汚い言葉なんて口にするもんじゃない。私は綺麗なものを見て、綺麗な言葉を吐いて生きていきたかった。美しいものに囲まれて、美しく成長して行きたかった。美しく生きれない私が懊悩するのは、なにか間違ってるんじゃないか。私だって世界を愛していたいが、世界が私を愛してくれないように思えてくる。神様は、姿も見せてくれないし、理不尽だ。







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