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メランコリーボーダーコリー

対象化されたものとして時間や過去をみれたらどんなに楽だろうか。


母親は好きだし、今の母親が抱える悩みにも力になりたいと切に願っている。母親は父親に奴隷のように働かされており、その愚痴を度々私にこぼす。「もうそろそろ離婚しようかなあ。」私は「そんなに嫌なら離婚すればいい」というが問題は、そうは単純にいかないのが常である。

私は高三の春に家出した。それまでなんやかんやずっと勉強を頑張ってきて、行きたい大学を決めた4月1日の朝に、「ごめんなさい、私離婚するからあなたを大学に行かせるお金が無いの。進学は諦めてね。」と言われた。すごくショックだった。これまでの自分の人生がわからなくなった。母にはずっと「お前には勉学以外に能がない」と言われてきたのに、その勉学の道すら絶たれた。時に人は絶望を味わう。そうした絶望は、いつも自分で取った選択が間違いだったことに気づく時か、自分の選択や願望が叶わないことを知るときにある。

何度も母の「離婚するする詐欺」に振り回されてきた。両親不仲の家庭では、長女は家族にとっての父であり母であり友である性格を強いられる。小学生の頃、私が母親に学校での不満を述べた時、母は「あんたの悩みなんてそんな大変じゃないんだから私の話を聞いてよ」と返ってきたことがある。この頃から私はこの家での自分の振る舞うべき在り方に気づいた。私は父。

幼い頃ずっと母親に頭を叩かれながら生きてきた。中学生頃まで、人が自分の頭の近くに手をかざすと非常に怯えてしまう癖があった。

家出したあたりから母親はようやく私への暴力を辞めた。それ以来は母親とは普通に会話を出来るようになった。母親のことは嫌いではない。むしろ好きだ。けれども、時折私を殴る母の顔がチラつく。あの母も今の母も同じ母であり、優しく晩御飯を作って実家で私の帰省を楽しみに待つ母を見ても、それが誰なのかわからなくなる。

人間はこうした苦しい出来事に終止符を打つために時間を作ったのだろうか。現在も人間の作る時間区分の中ではいつか過去として処理されてゆくはずだ。対象化された出来事は、現在の自分が想起する過去の「モノ」になる。悩みへ対する一つの救済が時間なのかもしれない。

それでも、時間なんてものは結局人間が作った区分でしかなく、過去を対象化して安楽に生きるのはなかなか難しい。過去と現在を切り離して生きれたらそれは楽だろうけど、私たち感覚的に生きる人間には、時として過去は枷になる。私は能動的主体として生きる人間なのでこと的世界の中で連続する時間の中に生きている。今日も苦しいな。


『 自己と時間 』木村敏、中公新書。

『嫌』- 極東飯店

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