中絶は【失敗】経験なのか

こんにちは。妊娠した子が通える高校を作りたい大学生の、新橋みゆです。

noteは久しぶりとなってしまいました。

とりあえず、ご報告。

今まで「みゆ」という名前で活動していましたが、苗字がないことにだんだん不便を感じてきたので、「新橋」という苗字をつけました。

「新たな橋を作ってほしい」という素敵すぎる由来の苗字をフォロワーさんがつけてくれました☺

今後は【新橋みゆ】として活動してまいります!

近況-プロローグ

前にnoteの記事を書いたのは、20になったときの中絶の記事だったようで、自分で驚いています…。

こうなった理由は、①公認会計士受験生で試験が近づいたこと、②家族の介護でそれどころではなかったこと、この2点によって性に関する活動の頻度が去年よりも落ちたからです。

特に介護については、もうしんどくて仕方なかったですが、その分家族や常識、言葉の選び方など色々なことを考えるきっかけとはなりました。

また、今までは性に関する知識と一緒に中絶の経験を話す、または妊娠した子が通える高校についての話と共に中絶の話をする、など何かとセットでなければ中絶の経験を話すことはなかったのですが、最近は中絶のみをお話する機会が何度かありました。

去年までとは圧倒的に違う、波乱で、今までなら選ばなかったであろう道に進む機会ばかりでした。

家族(ジェンダーロール)、言葉、書きたいことは色々あるのですが、とりあえず今回は中絶について~第2弾~を書こうと思います。


中絶-私の中絶は〈失敗〉とみなされるものなのか

〇今年経験したこと

今年は、私の「中絶」にフォーカスを当てたお話をする機会を何度か頂きました。

今までは、中絶がもつスティグマ(汚名)に影響されて、「それを踏まえて活動してますよ。私は悪いことをしたかもしれないけど、それを活かしているからいいでしょ」と言うことができる形でしか中絶について公の場で話してきませんでした。

今年、クローズドな場でお話する機会を頂いたので、初めて中絶をメインとして話すということをしました。

そこで感じたことは、「私が知っている中絶の事実を、私が思っている以上に他の人は知らない」ということです。

当事者だからわかることが多い。「きっとこれくらいは想像つくだろう」と思っていても、それはあくまで私の【予想】でしかない。

中絶の当事者という面のみで表に出るのは今まで避けていましたが、これからは場所を選びつつであっても、私の経験を他者に開示していく必要があり、それをすることで日本の「中絶」を変えられるのではないかと思いました。

正直、中絶の話をした次の日は今でも体調悪くなるし、すごく楽なことではないのですが、アクティビストの方など「不特定多数」とはならない人には話していこうと思います。

〇よく頂く言葉

中絶の話をすると、「失敗を未来に活かしていてえらい」と言われることがあります。

その度に、「私の中絶は【失敗】経験なのか?」と考えます。

大学入ってすぐ始めたこの活動、もちろんきっかけは中絶でした。

しかし、この3年弱、活動をしていなかったら出会えなかった人や、触れる景色がたくさんあります。

その中で、「活動すること」は、今や私のアイデンティティの一部となっています。

自分のアイデンティティを形成する、自分の選択によってした「中絶」は【失敗】経験なのでしょうか。



中絶を【失敗】として扱われることは、私は非常に悲しく思います。

「産むことが正解」なのでしょうか。

「学生は避妊を正しくして、妊娠しないことが正解」なのでしょうか。

「避妊は、自分で調べて当然知っているのが当たり前」なのでしょうか。

2つ目については、あながち間違いではありません。学生は特に、体の発達が未熟な場合もありますから。

でも、正しい避妊をしても妊娠する可能性はあります。その「妊娠」は【失敗】なのでしょうか。

1つ目と3つ目に関しては、無責任すぎる気がします。

「産みなよ」と言うことは簡単です。しかし、それなりのお金も、自分の心の余裕も、時間も必要なことです。そんなに簡単に選択できません。支援も少ないし。

避妊について、「自分で調べて知ってるのが当たり前」もわけわかりません。
今でこそ性についての知識を得られるサイトは増えてきています。
しかし、「セックス」についてのリスクやそのリスクを避けるための方法を知りたくても、「セックス」と検索すると過激な画像や怪しげなサイトがトップに出てきます。

それを「自己責任でよろしく」と言うのはあんまりです。


悲しいことですが、今の予定外の妊娠って「自己責任でよろしく。」のせいで起こっていると思います。

中絶を選択するとき


産みたくても産めない状況があったときに、中絶を選択する。

多くの人が何かしらの理由があって中絶を選択します。

色んな思いを持って。

それを、「失敗」と言われてしまうのは悲しいです。

「中絶は失敗」と思う人が多いその雰囲気が、「中絶のスティグマ」を表しているのではないかと思います。

そして、その「失敗と思う空気」も相まって、中絶後に精神的に苦しむ人がいます。

中絶そのものでも辛い思いをしている人が多いのに、「中絶は失敗」という言葉がさらに重くのしかかる。

私は、中絶の話をするときはネガティブな面とポジティブな面を半々にできるように気を付けています。

気を抜くと、ネガティブな面が増えちゃいます。多分。

日本では、中絶は悪という考えがこびりついていて、それは私の中でも例外ではないから。

「中絶を失敗体験と思わない」ことで、中絶を悪だと考える人も減っていき、中絶に対してポジティブな面をもつと感じられる人も増えるのではないかと思います。

その人が、その人なりに考えて、いろんな複雑な思いをもって選択した「中絶」を、【失敗】とは言わないでほしいな、と当事者の一人としては思います。


当事者はたくさんいる

街中を歩いていると、妊娠している人はたくさんいます。

つまり、妊娠をしている人は常に世の中にそれなりの人数でいる。

お腹が大きくなるから、またマタニティーマークを付けているから「産む」という選択をした人は目につきやすいです。

中絶は、ほとんどの産婦人科で受けられます。
つまり、中絶を選択する人は恐らく皆さんの想像よりたくさんいます。

その人たちができるだけ苦しまないで済むように、

今、妊娠している自分の、未来のための選択のひとつ」と、ポジティブな意味合いで「中絶」が選択される世の中になることを、願っています。



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