SCUで過ごした約1週間 その1
SCUでのことは実はほとんど覚えていない。そのうっすらとした記憶を少し辿っていきたいと思う。
手術をして約4日後ようやく起床時間に目が覚めるようになった。酸素マスク等をしていることからとっても喉が渇いていた。看護師さんに何か希望がある?って聞かれたので「みかんの缶詰が食べたい」と言った。ちょっと酸味のあるすっきりしたものを喉に流し込みたかった。
看護師さんは家族に私の要望を伝えてくれた。
おそらくこのくらいの時期から起床と同時に見当識チェックが始まったものと思われる。ただこの頃はとても頭がぼんやりとしていて自分が寝ているのか起きているのかがよくわからなかった。
初めての起床時の質問で「ここはどこかわかりますか?」と聞かれた際に、思い込みで「日赤」と答えると「違うよ。」と訂正された。私は頭の手術をしたことも入院をしていることも救急車で運ばれたこともこの頃はしっかり理解はしていたのだが何かぼんやりしているようだった。「日赤」と答えたのは思い込みもあったような気がする。私が倒れた場所からだと一番近い病院が日赤だったからである。私が幼き頃に脳の治療で優秀な病院は日赤と聞いたことがあったこともあり、そんな思い込みで日赤と答えたのだったと思う。
SCUでの朝は必ずといっていいほど血圧計に腕が締め上げられて目が覚めた。何度も締め付けるものだからかなり痛い。看護師さんに血圧計が痛いと告げると「血圧が高いせいだよ」と一言だけ言われた。この時の血圧がどのくらい高かったのかはわからないが病前も特別血圧が高かったことはなかったのでおかしいなぁ~と思っていたくらいだった。
ちなみに今も血圧は正常値である。降圧治療等もまったくしていない。
SCUではほぼ寝て過ごしていた気がする。この状態は一般病棟にうつってからもしばらく続いた。毎朝のチェックの内容は、日付、場所、曜日を聞かれる。血圧や心電図はそのままデータ管理されていたようだ。酸素の量なんていうのもチェックされていた。これも後からきいた話では軽い嚥下障害もあったようだ。自分が起きていると実感していたのは、朝のバイタルチェックの時と、家族が面会にきたときのみであり、その他はずっと眠っていた。眠りながらCT検査されているなんてこともしばしあった。
手には両手ともにミトンのような手袋をされていたので自分の手がグーなのかパーなのかもよくわからなかった。家族が面会にきたときは体を支えてもらってベッド柵に体を預けながらなんとなく座っていた気がする。
この頃、頭がおかしかったせいなのか、病室中に小さな子供が数人いたように見えた。カーテンレールにぶらさがる子供、椅子の下に隠れている子供、追いかけっこしている子供。
それを家族に伝えると、否定はされなかったが、「ふーん」という微妙な感じの返答が返ってきた。このおかしなものが見える症状は一般病棟にうつってからもしばらく続いたた。
今思うとこれって「せん妄」だったのではないかなと思う。
家族は毎晩お見舞いに来てくれた。SCUには家族しか入室できないので、夜に家族と話す時間だけが私の雑談をする時間となった。両親は自分の知り合いで脳の病気をした人がちゃんと動けるようになったよという話を何度もしてくれた。それを聞いて事態の深刻さをあまり実感できていない私はまたちゃんと歩けるようになるのかなぁ~と軽い気持ちでいた。
夜中、点滴の差し替えのために看護師さん数人に急に寝込みを襲われるなんてこともあった。点滴や注射は基本麻痺側ではなく健側にしかしないとのことだ。私の右手にはもう針を刺す場所がなくなってしまっていたため、足の甲に刺されるなんてこともあった。痛がる私になんども誤る看護師さんに「100%ぶどうジュース買ってくれたらいいよ」と言った(笑)
そして後日本当に買ってもらった。
この頃、足や手に麻痺が出て自分の意思で動かすことができないということだけは認識はしていた。ただちゃんと話すこともできるし、言葉の意味も理解ができる。倒れたことも覚えているし記憶もちゃんとしている。この先始まるリハビリを頑張ればすぐに元に戻れるんだろなぁ~というかなり楽天的な思考だった。