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ウソウソの実のウソ人間

『女はウソをつく』とか、『男はウソをつく』とかね?

大きい小さいはあれども、生まれてこの方『ウソをついた事が無い』って人は、この世界に居ないものとする。

『よかった』とか『ステキ』とか、気分を害さないために思ってもいないことを口にすることだって厳密に言えば『ウソ』の領域なんだろうし、大切な人を庇って『確かそんな気がする…』と、はぐらかすことだって『ウソ』の領域でしょうしね?

人間社会に生きていれば、シチュエーションによってはわりと咄嗟に出てくるんじゃないだろうか?

それかもごもご口籠るか、目が泳ぐか、どっちかよ。

上司や先輩を持ち上げるにしても、子供を褒めるにしても、ほとんどウソってパターンだってあるでしょ?

いかなるウソをもすべて『悪』であると理解する潔癖な世界が素晴らしいのか、悪意の無い咄嗟のウソに対しては社会で生きる術としての『ウソも方便』と解釈できるのか?

もし人間が『パーフェクト・ワールド』を望むなら、世の中もうとっくに悪なんで、ウソがどうだ方便だとかって次元の話じゃない。

『性善説』

人間なんだからウソをついても仕方が無いのであるならば、『ウソも方便』を駆使しつつ、日々巻き起こる諸々の問題を丸く収めることに重点を置く方がスムーズなんじゃなかろうか?

『めちゃ似合ってる!』『いやぁ、かわいい☆』『これ好きぃ!』『美味しい。』『モテるでしょ?』

つまり『女はウソをつく』『男はウソをつく』って設定にはほとんど意味が無いことが理解できる。

人間という生き物が社会を形成をして生きる、その中で上手く立ち振る舞うための一つのスキルとして、自分の立場を有利にするために、相手を慮って、さまざまな条件下においてウソをつくという技術を駆使する。

もちろん『潔癖』な人もいますんで、『いかなるウソもすべて悪である。』という認識ももちろんある。であっても社会生活を円滑にする目的で使用される小さめで罪の無いウソは、罪悪感無しで便利に使われているのが現状である。

そのウソに罪があるなしは受けた側それぞれの判断に委ねられる。だからその場しのぎにふいについたウソが後々に大きめのトラブルになることもある。

『ウソの加減』

マヨネーズみたいなもんで、その食材のうまみを最大限に引き出すために適量を上手く使えば、その料理がさらに高められる。一方で、摂りすぎるとコレステロール値が上がって成人病の原因になったりする。

使い方次第で毒にも薬にもなる。

ウソだと思うならやってみたらいいよ。

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