(果汁入り『本物』ドロップ一缶三千五百円)

(果汁入り『本物』ドロップ一缶三千五百円)

カラン、と歯に当たる音。携えるのは色とりどりのキャンディ。メロンだかレモンだかわからないこれを、俺は次々口へ放り込む。ケミカルと不自然に犯されたこの世界で、これだけが俺の救いだった。

俺は【シガードロップ】。薔薇色の未来を夢見る35歳の若者だ。ああ畜生! また外れやがった!
手の中にある端末をどうにか操作しながら、俺は舌打ちをする。宝くじはもうやめだ。何発撃ってもあたりゃしねえ。俺は苛々しながらスキットルを取りだし、逆さにして振って口から出た新しいキャンディを自分の口へ突っ込んだ。カラン、と歯に当たるキャンディはすっきりと甘い。
俺は自分が覚えているよりも鋭い犬歯を舐めた。耳鳴りが止まない。俺は冷静に手を広げ、耳に親指を突っ込むと【オマジナイ】をした。こうするとおれは耳鳴りが止む。耳鳴りは止まなかった。俺は舌打ちする。【オマジナイ】はこの体には効かないようだった。
畜生。俺は一週間弄り続けてようやく使い方のわかってきた端末の画面を切り、口の中のキャンディを舐めた。こうして体をとっかえるのは12回目だ。最初の俺は俺だった。俺は体が弱かった。弱かったんだと思う。それが何だというんだ? 乗り換えてきたどの人間も最後にゃ死んだか死ぬよりひどい目にあったのは変わりない。俺はそのたびにキャンディを突っ込み、乗り換えてきた。元のアカウント(人格)がどこに行ったかなんか知ったことじゃない。俺はキャンディを舐める。このフルーツキャンディが俺を【俺】にしてくれる。逆に言うと、これがないと俺は死ぬ。俺が俺でなくなって、俺は俺が何だったのか思い出すこともできなくなる。
そうなるのは明日か? 明後日か? 俺には知る由もない。
このキャンディは高い。俺には金が必要だった。餓死しようが舌を切ろうが、これがある限り俺は俺のままいられる。キャンディがあれば。命は高い。おれはこの最低月額十五万の命に無限の契約更新を迫られ、逃れられぬ支払いをかれこれ三十五年も続けている。

金がない。俺には金がなかった。一発逆転のチャンスを狙い続け、どれだけ経ったことだろう。

俺は端末の暗い画面を見た。フィルムの張られていない画面に映っていたのは見知らぬ顔だった。見覚えのない顔は、ちょっと意味が分からないくらい整っている。意味が分からないな、と俺は思った。俺はビル風の吹きすさぶテラスから颯爽と飛び降りようとして、思いとどまった。前の【俺】は身体強化手術をしていたが、この男はどうだ? 多分してないだろう。からからとキャンディを転がす。試してみればいい、と俺の頭の中で声がしたが、俺は手すりにかけた足を床へ戻した。理由は色々あったが、折角手に入れたこの顔を手放すのが惜しかった。この顔がぐしゃぐしゃに潰されるのは世界の損失だろう。そのはずだ。
おれは手すりから離れ、尻に入っていた見覚えのない財布を探る。黒い革に赤いステッチの入った財布の中には、電子素子とクレジットカード、万札が三枚と少し入っていた。ビル風に持って行かれないようにしながら、おれはふと、駅のコインロッカーに少額のたくわえがあるのを思い出した。ラッキー! 引き継いだ後に前の体のことを思い出すのは珍しい。今ならまだぎりぎり廃棄もされていないだろう。俺はポケットを探ったが、ぴたぴたの革ズボンに鍵は入っていなかった。
鍵が入っていたのは【前の体の】ズボンだと気が付いて、俺は舌打ちをする。自分で暗証番号を決めるタイプのロッカーを使えばいいのだろうが、そうすると今度はロッカーの場所がわからない。俺の脳にはどこかの鍵、【9510】が刻まれている。ままならない。頭にきた俺は、知らない男の財布から出した出所のわからない金でカフェの店員にキャラメル抹茶パフェラテを注文した。

旨い。風になびくパラソルの房飾りをみながら白玉ボンボンをむちゃむちゃと食う。旨い。店内手作りだと言う白玉ボンボンはクーベルチュールがホワイトチョコレート、センターにはアンコペーストが入っていた。
「となり、よろしいか?」
「あ? 誰だオッサン」
男は俺の質問には答えず、勝手に座った。ロングコートに丸いメガネ。どこからどう見ても怪しくてやばい奴だった。ご丁寧に帽子までかぶっている。
「【シガードロップ】とはあなたのことです?」
「だったらなんだよ。俺ひまじゃねえんだ。全然」
言ってから気が付いた。この男、俺が【シガードロップ】だと気が付いている。シガードロップ。誰かに名乗った覚えはなかった。無いはずだ。俺は口の中の白玉ボンボンを飲み込んだ。
「……何者だ? 俺を知っているのか?」
「ええ、【チェリータルト】とは婚約者でして。覚えています? 私の事を」
【チェリータルト】? 俺は記憶を探る。それって確か。俺は水で割ったジュースみたいにうっすい記憶を探る。
「あー……ピンクボブの女か?」
「ええ、ええ! その通りです。何度かメールをくれたでしょう」
そうだった、そうだったか? 俺が?この男に? 俺がだれかに能動的にメールを送ることはない。と、そこまで考えて気が付いた。能動的に送ることはなかったが、返信はまめにしていた。無論、本人に偽装し続けるためだ。【アカウント】の乗っ取りは重罪だ。いや、重罪のところもある。しかし俺はそうでないところとそれの区別がつかない。だから周りに合わせてなんとなく目立たないようにしていた。【チェリータルト】は三人目だった。確か。キャンディを減らせば宿主の記憶が若干戻ってくることに気が付いたのは六人目からだっただろうか。
「思い出したぜ。よく気が付いたな、俺が成り代わってるって」
「なにか、変だと思ったんです。彼女から一度もまともに返事をもらったことなかったので」
俺は舌打ちした。
「めんどくせえ恋愛してんじゃねえよ! 俺がどんな思いで【チェリータルト】演ってたと思ってんだド畜生!」
男はふふ、と息を漏らし、肩をすくめた。むかつく。
「それで? 何の用なんだ。俺を殺しにきたのか? 婚約者の仇を?」
「まさか! それだったらこんなところで話しこまずに路地裏で一突きでしょう」
男はからからと笑う。
「……いいや、路地裏で一突きも悪くない、ですかね?」
男は帽子の下で薄気味悪く口を歪めた。俺の理性はなんか変だ、といった。俺は焦りが顔に出ないようにわざとめんどくさそうな顔をしながらラテを掻き回した。緑っぽい泡がクリームと混ざって変な色になった。
「なんなんだ、何の用だ、オッサン」
「いやだな、まだそんな年じゃないですよ」
男はねっとりした視線をこちらに投げかけながら言った。気持ち悪いと思ったが、おれは好奇心にまけた。
「ちなみにいくつなんだ」
「28♡」
うげ、と思った。あのピンクボブ年下好きかよ! 俺は舌打ちした。しかもこの男、このナリで俺より下か。どうなってやがる。
「【シガードロップ】は?」
「先に俺の質問に答えろ。何の用が合っておれに会いにきた?」
「失恋を取り返しにきたんですよ」
「は?」
この男、さっき殺しに来たわけじゃないって言ってなかったか? 男は顔を寄せ、俺の手を掴んだ。男の言葉で呆気にとられていた俺は出遅れた。そのままぎゅっと手を握られる。ヤバい。どう考えてもやばい。振りほどこうとして力を込めた。込めたが。
「彼女のことは忘れましょう。美しい人」
「は?」
もうわけがわからなかった。本当になにしに来たんだ、と俺は思った。
結局、俺は逃げるのに失敗した。俺は……俺はなにをしているんだろうな? 気が付けばこの胡散臭い男に付き纏われていて、俺はこの男の粘っこい笑いが何によるものかを自身の背を震わせる悪寒によって悟った。

三人目、【チェリータルト】は色情狂じみた女だった。女の体はなにかと面倒な代物だったと記憶しているが、男の体であってもそう楽なことはないのだと俺は知る事になる。女の偽物、偽物の女。畜生。俺は夜明けのしとしとと雨の降る暗い窓を睨んだ。畜生。

畜生め。俺は何度目かわからない舌打ちをした。意味が分からない。

意味がわからないと俺は思った。婚約者の仇を婚約者の代わりにしようなどというのは狂気の沙汰だ。意味が分からない。そもそもそれは代用がきくものなのか? おれはキャンディを口へ放り込んだ。横でゆらゆら体を揺らす男は酷く嬉しそうにしている。なにかとトンデモが発生しているが、ともかくキャンディだけはなにがあっても死守せねばならない。これは俺の正気で救いだ。俺はからからと口の中でそれを転がした。甘くさわやかな香りが鼻に抜ける。
「おや、キャンディですか? そういえばずっと舐めていますね」
「やらないぞ。人にポンポン渡せるようなもんじゃねえんだ」
不機嫌に言えば、男は、へえ、と気の抜けたような声を上げてそれ以上何も聞いてこなかった。俺はどうやったらこの男から逃げつつ大金を手にできるかを考えていた。おれはふと思いつく。この胡乱で怪しくて、俺に惚れているらしいこの男から金を引き出せばいいんじゃないか? これは名案だ。俺はさっそく色々とウィットにとんだ文句を考える。
「お前、金持ってない?」
「はあ、なんですいきなり」
結局俺は直截的に聞くことにした。男は揺らしていた体を止め、眼鏡を上げた。
「お前、俺のどこに惚れた? 外見か?」
男は思案顔で、ふむ、と言った。沈黙に、カチカチ時計の音が響く。カチカチ、カチカチ。男は考えているのかいないのか、押し黙っている。重い沈黙に不安がのしかかる。聞いちゃまずかったか? 俺は後悔する。カチカチ。カチカチ。時計の音は不規則に刻む。沈黙に耐えきれなくなっておれは口を開いた。
「なあ……」
「そうですね。知性ですか。あのメールのやり取りを通して、あなたの言葉選びや分の構築からただならぬものを感じました。それで思ったんです。私はこの人に……おっと失礼。これはまだいうべきことではありませんね」
「……はあ、さよか」
出ばなをくじかれた俺は間の抜けた声を出した。男からすればとんでもないアホに見えたことだろう。
「興味ありませんか?」
あると言うべきか、ないと言うべきか。俺は頭の中でレジスターを打った。ガシャガシャ。チン! 俺はレシートを切り取った。
「【俺】が好きか?」
「……え、ええ」
男は少し驚いたような動作をとり、眼鏡を押さえると顔を赤らめた。おれはその反応に若干の気持ちの悪さを感じたが、真偽を問いただすまでもない。答えはそれで十分だった。
「お前の大好きな俺の精神はこの体とさっき見せたキャンディで繋がっている。【シガードロップ】はそういうものだ」
男はほんのり色付いた顔を上げる。頬の赤らみとは裏腹に、色情へ濁っていた目は奇妙なまでに冴えわたって底知れぬ知性の片鱗をのぞかせる。ずっとこういう顔しててくれりゃやりやすいのにな、と俺は思った。
「そのキャンディ、高いんですね? それでも、あなたはあなた自身のためにそれを求めている」
「話が早いな。その通りだ。俺の時間買わないか? キャンディの分だけ付き合ってやる」
男は条件をのんだ。キャンディがなくなれば見限ればいい。そうして金が溜まったら、俺はどこへでも好きなところに行ける。俺は浮足立った。永遠の負債、キャンディに追われる生活から足を洗えるのがこんなに心弾むとは!

俺は当たらない宝くじに代わる金策としてもう少し地道なやり方を見つけることにした。考えに考え、俺は居酒屋のサクラのバイトを始めた。この顔はとても便利だ。振る舞いにさえ気を付ければ、世界の全てが手に入るんじゃないかと思わせるような力がある。美形万歳。男は当然いい顔はしなかったが、何か思うところがあるのだろうか、特にこれといって口を出してくるようなことはなかった。

「よおミシェル! 久しぶりだな。なに、新しい男か?」
街を歩いているときに声を掛けられ、俺は半笑いでちげえよ、と言った。声をかけてきたのは見知らぬ男だった。宿主の知り合いなのだろう。男たちは俺を囃し立て、俺はそれに話半分で頷きつつも、用事があるからと言って場を辞した。慣れたもんだ。
俺たちの【恋人ごっこ】は続く。キャンディはたっぷりあった。隣を歩くロングコートの男は出所不明の財源を持っている。意味が分からないなと思ったが、金がある分には困らないので放っておいた。男は俺にキャンディを食わせ続ける。俺は、宿主の記憶が引き出せなくなるほど【俺】に近づき、男はそれを喜んだ。
「ここでいいか」
「ええ」
俺たちは【中華寿司】に入った。ロングコートと帽子を脱いだ男は褪せた金の髪とブラウンの目を持つ、何とも胡散臭い感じの男だった。俺は何度かこの姿を見ているが、長い髪といい、顔立ちと言い、とても28には見えない。くしゃくしゃの髪で髭を剃っていると、本当に二十代なのか疑わしくなる。
「いらっしゃいませ、何名様で」
「二人ね」
【中華寿司屋】のボックス席に座り、俺はエビピラフ握りを食っている。男のおごりだ。最高に美味い。人のおごりで食う飯ほどうまいものがあるか? ない。男はレバニラ軍艦を頼んでいた。ラー油を垂らした寿司が神経質に箸で突かれるのを俺はなんとなく見ていた。途中、俺は流れてくる餃子の皿に気が付き、今度はそれを目で追った。
「調子はどうですか?」
「んん? うまいぜ。【中華寿司】は良いよな。甘いもの辛い物何でもある」
俺はタッチパネルを操作して『姑娘のにゃんにゃん中華饅パフェ』を頼んだ。
「ビジネスの方ですよ。何かしているのでしょう」
「まあまあかね。ぼちぼちよ、ぼちぼち」
男はなにか考えるように口を閉じた。おれは姑娘のにゃんにゃん成分について考えていた。まさか中華を食うニャンってオチじゃなかろうな。
「あなたは……金を手にして何をするつもりなのです?」
「なにって、キャンディ代だよ。わかってるだろ」
おれはおしぼりを折りたたみながら言った。
「私がいるじゃありませんか。あなたは私といる限り、生きるためのキャンディを買う必要がない。キャンディを食べて、生きながらえて、一体何をするつもりなんです」
それはだ。それは……言いかけて、俺は答えられなかった。もう三十五年生きている。俺はなにがしたいことがあった。俺は、キャンディを食べ続ける限り無限の時を生きられる俺は、その無限を何につなげるつもりだったのか?
「……なんだっけ?」
「忘れてしまったのですか?」
おれは答えに困る。困っていると、おまたせしました、といって通路側からパフェが置かれた。俺はそれをじっと見つめた。俺は、何を求めていた? 俺は……
「冷めてしまいますよ」
男は中華饅を半分に割り、俺に差し出した。
「ああ……」
受け取った饅頭の中身は明太ポテトとワカモレのサラダだった。俺は一口食べ、意味が分からないな、と思った。顔を上げると、向かいで男が同じように渋い顔をしているのが見えた。俺は手の饅頭をアイスに載せ直し、酢醤油をパフェに回しかけて食べた。俺は再び、意味がわからない、と思った。

俺はビル風に吹かれながら、自分自身が何を欲していたのかを考えた。永遠を生きて、一体何をする? 永遠を生きる俺は、何ができる? 俺はいったい何をしようとしていた? 考えて、考えて、わけがわからなくなった俺は、レジに立っていた店員にピンキーピーチパイを注文した。八の字型のピンクのパイは、むせかえるようなバターとしつこいほどのバニラの匂いがした。

「キャンディを造ってるところが見たい?」
男は不可解そうに言った。頼む、と俺は言った。自分のルーツをたどれば、俺は俺の望みがどんなものだったか思い出すんじゃないかと考えていた。
「いいですけど……」
「本当か!」
俺は食い気味に言った。男は珍しくちょっと迷惑そうな顔をして体を遠ざけた。
「ただ、相応の準備が要りますからね。当分先になりますよ」
それでいい、と俺は言った。男も頷き、俺は自分自身の薔薇色の未来計画について思いを馳せた。男はうんうんと頷く俺を、若干不可解そうに眺めていた。

◆◆◆

男はよくよくやってくれた。忍び込んだ【キャンディ工場】の中は不可解な空間だった。男は非合法の向精神薬を作っている工場だと言った。俺は男の持ってきた見取り図を見ながら、工場の中をぐるぐると回った。排気ダクトを這い回るのは快適とは言えなかったが、俺は浮かれていた。なにかがある。そんな気がしていた。俺の胸は期待に膨らむ。今回の工場襲撃は俺に何かをもたらすだろう。俺ははちきれそうだった。男は珍しくしょげたような顔で『帰りたい』と言いながら、俺についてきた。

俺たちは工場の主要部、大きなホールのような場所に出た。

俺はキャットウォークの上に立ち、一階部分を見下ろしながら歩いた。何かわからない樽がごろごろと掻き回されている。もうもうと上がる湯気が俺たちを薄く隠すのが面白かった。
「待ってくださいよ。私はあなたみたいに小回りが利く体じゃないんですから。ああ、狭かった……」
白い湯気の向こうで、コートを腕に下げた男が肩をぐるぐる回していた。俺は早く先に進みたくて、男の方へ駆け寄った。
それがいけなかった。濡れていた床が滑り、俺は悲鳴を上げながらどうしようもないドジの運動音痴がやるみたいにすっころんだ。口に入れていたキャンディが飛ぶ。ヤバいと思った。ヤバいと思った時にはすでに、俺の意識は飛んでいた。

白い霧の中、目の前に【美しい男】が倒れていた。あれは俺の顔だ、と俺の理性はいった。美しい顔。【俺】は途方もない『欲』を自覚する。この男を引きずり倒し、犯したいという欲望。俺は戸惑った。この感情がどこから来るものか、【俺】にはわからない。俺の『体』は『反応』する。俺の? 俺は、俺は舌なめずりをした。途中、何かが舌を切った。口から異物と思しきそれを取り出す。舌を切った刃は、レモンだかメロンだかわからない匂いの、透明な薄い板だった。先の方に穴が開いて、そこが刃物のようにとがっている。指の先でぱきりとヒビ割れる薄い透明グラスのようなそれを見ているうち、俺の意識は再びすっと遠くなった。

俺は体を震わせて目を見開く。今のは何だ? もうもうと立ち上る湯気の中、俺は起き上がった。
「【シガードロップ】? 【シガードロップ】、私の声が聞こえますか」
頭の上から男の声が降ってくる。さっき見た夢の内容がフラッシュバックする。本当に夢か? 俺は目を開ける。ひどく気持ちが悪いと思った。気持ちが悪いと思ったが、それ以上に気持ちの悪いことがあった。
「お前、なんで、勃っているんだ」
「えっ? あれっ!? なんで!?」
本当に今の今まで気が付いていなかったのだろう。眼鏡を抑えて慌てふためく男は間抜けそのものだった。おれは珍妙な踊りに似た動きをしている男の、片方の手に握られたものを見た。銀のスキットル。おれの、キャンディ入れだ。俺は俺が危うく消えるところだったのを思い出した。消える。【俺】は、消えなかった。キャンディをなくしても。
「おまえが、俺にキャンディを?」
「え、ええ。そう、そうです」
男はコートの前を閉めて、俺の方を見た。俺はゆっくり立ち上がって、男に歩み寄る。
「な、なんです?」
いつもは無遠慮に詰めよってくるくせに、たったこれだけのことでたじろぐ男がおかしかった。しかし、今は笑っている場合じゃない。俺には確かめたいことがあった。
「動くなよ」
肩を掴んで囁いて額を突き合わせれば、男は身を竦ませ、ぎゅっと目を閉じた。俺は口をすこしだけ開き、そのまま踏み込んで唇を重ねた。

雷が落ちた。ばちりと電流が流れたように目が開き、壊れたテレビめいて視界が重なる。俺の視界には、【美しい男】と俺の顔、それから俺の顔と男の顔が見えた。かっと羞恥に体が火照る。頭に血が上って、俺は血の気が引いていく。俺の手によって俺自身の肩が掴まれている。首が向かい合っている。俺は自分のブラウンの瞳に俺の黒っぽい眼が移りこむのを見た。俺は顔をしかめた男が俺の目に映る。男が俺が変な顔をする。俺は屈んでいる。俺は背伸びをしている。俺は、俺は気持ちが悪くなって俺を、目の前の男を突き飛ばした。

口から銀の糸が引く。そうして【俺】は、【俺たち】は切断された。

尻餅をついた俺はぜえぜえと息を吐いた。気持ちが悪い。【俺】はいったいだれだ?
「なあ、【俺】……じゃなかった。ええと、ああ、なんだ。そう、記憶はあるか?」
「ええ。ええ。ちょっと頭が……」
頭が痛いのは俺も同じだ。同じだが、今それを言う気にはなれなかった。同じ。同じ。同じ。嫌な言葉だ。
「これでわかった。俺の本体はそのキャンディだ。どんな仕組みかは知らないが、そのキャンディを食べた人間が【俺】になる」
言って、この感覚は覚えがあるな、と思った。誰かに昔同じことを言ったことがあるのかもしれなかったが、俺にそれはわからなかった。

おそらくこのキャンディは神経に作用して、食べた人間の脳に【俺】を造りだす。どこかに【俺】をバックアップするものがあって、おれの本体はそれによって保管されているのだろう。キャンディがそれのセキュリティキーだ。どんな仕組みかはわからないが、そんなことがあっても別におかしいとは思わない。俺はその不可解に寄って体を乗り換えてきたのだから。
そう、それが俺の正体だ。体を乗り換える瞬間の記憶がないのを疑問に思ったことなどなかった。俺は、俺自身が何なのか、疑ったことなどなかった。

「どうしたんですか……?」

目の前の男は引き攣った顔でそう問うた。俺は笑っていた。

俺は声を上げて笑った。バックアップを保管する場所がどこかはわかっていた。わかっているような気になっていただけかもしれない。俺の勘は、神経を引っ張るみたいに俺をそっちへ誘導しようとしている。おれは駆けだした。男が追いかけてくるのを確かめ、俺は真っ直ぐそこへ向かった。俺は笑った。楽しかった。楽しいのだと、そう思った。こんなに気分が高揚したのは久しぶりだった。ああ、ああ!

たどり着いた先には厳重に閉じられた重そうな扉があった。男はいつの間にかいなくなっていた。でも、そんなことはもうどうだってよかった。俺は俺自身に開けた薔薇色の未来を夢見ている。薔薇色の未来? そんなものはどこにもない。耳鳴りが止まない! 俺は現れた電子錠のパネルに【9510】と入れた。扉は開いた。
中は狭かった。人間が一人はいればいっぱいになってしまうような場所に【それ】はあった。【それ】があるから、いっぱいなのかもしれない。何らかの装置。それが、きっとおれの本体なのだろう。けたたましい歓喜が引き、ずっと帰っていなかった実家に帰ってきたかのような郷愁の念が俺の胸を満たす。この世界は何もかもが偽物だ。きっと俺の今抱いたこの感情も偽物なのだろう。そんなことはわかっている。なにもかもが偽物だ! 俺は、スキットルを手に取り、目の前の装置に叩きつけてその両方を壊した。いつから持っていたかわからない、俺がずっと持っていたと思っていたスキットルはよく見てみれば新品そのものだった。

けたたましいサイレンとともに、爆発音が響き、俺は【俺】の終わりを見た。耳鳴りはいつの間にか止んでいた。【俺】がやりたかったのは、きっとこれだったのだろうと言う満足感だけがあった。【本体】が死んだ今、それはまやかしの感情なのかもしれないが、それだってどうでもいいことだった。

まやかし、偽物。この世界のものは、何もかもが偽物だ。俺は笑っている。俺を【俺】たらしめていた【正気】の象徴、このキャンディですら、本当のキャンディなどではない。とんだ皮肉だ! 俺は笑っている、俺は笑っている! 俺は! 笑っている!!!

俺は工場内の配管を切って回った。もうここが必要な人間はいない。キャンディはもういらない。そうしてキャットウォークのところまで戻ってきた俺は、軽くなったスキットルを投げ捨てた。手から離れたそれは円を描き、少しだけ残っていた飴玉はこぼれ、散逸し、そのすべては湯けむりの向こうに見えなくなった。もうもうとあがる湯気はいよいよ空気を満たし、ちょっとの先も見えそうにない。真白の世界の中で俺は笑った。真白、まっしろだ。全ては白紙に戻された。支払いは終わりだ。最低額月十五万の命による無限の契約更新も、負債も、全ては白紙に帰る。今の俺にはもう関係ない。【俺】はやりきったのだ!

俺は笑った。ケミカルと不自然に犯されて生まれたこの世界で、キャンディを舐める【俺】だけが衒いない本物だった。キャンディが偽物だった今、本物なのは俺だけだ。ははは。世界中でただ一人。ただひとり、俺だけが! この【偽物】の世界の中で【不自然】なのは【俺】の方だ! 俺は笑い、口の中に残っていたキャンディを噛み砕いた。

(果汁入り『本物』ドロップ一缶三千五百円:おわり)

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