オッペンハイマー 殴り書き

今日はアホみたいに風が強くて、予約をしてなかったら見に行かないぐらいだった。オスカーの作品賞。その他諸々受賞した作品を見ないわけにはいかなくてやっと公開された「オッペンハイマー」を初日に日比谷のIMAXで見た。

本当にどうゆう顔をすればいいのかわからないシーンが何個もあった。確かにモノクロのIMAXや原文のこだわりをカラーとモノクロで表す描写は素晴らしいのかもしれない。でもそんなことは見ている最中には思いもしなかった。

自分は映画で寝たことが無いし、途中でトイレに行って大事なシーンを見逃すようなこともしたことがない。だから見終わった数時間後には初めて映画を観ることに失敗したとも感じた。本当に映画をフラットに観ることが出来なかったと感じた。作曲賞を取った音楽の良さも感じられないぐらいずっとどうすればいいのかわからなかった。

果たして本当に俺は失敗したのだろうか。この映画自体時系列が1回の鑑賞では完璧には理解できないようなものだったので、どこまで正確かどうかはわからない。
一つは原爆を落とす都市を選定するシーン。
もう一つは原爆の完成直前、本当に原爆の投下が必要かと疑心暗鬼になる科学者達の集会でオッペンハイマーが現れ、一つの例、モデルが必要だというシーン。(このシーンがカラーであったか否かを覚えていないのでもう一度見た時に確認したい。)
特にこの二つのシーンと後のスピーチのシーンは正直自分の中に怒りを感じた。

オッペンハイマーが善悪の二つでは語れないような様々な政治的、道徳的な様々な物差しの中で葛藤し、後悔する様は、この映画を反戦的で原爆を否定するようなものだと言えることはわかる。ただそんなこと当たり前じゃないか?

ここまで書いてきて自分自身恐ろしくなってきているので戒めとして書かないといけないことは、結局は自分が日本人であり、唯一の被爆国である国の出身であること・日本においても真珠湾攻撃など明確な間違った行為があったことは忘れてはいけない。

原爆の投下が成功し、オッペンハイマーが壇上でスピーチをするシーン。自分はかなり酷い顔をしていたと思う。唯一とも言える被爆者の様子を表すあのシーンは、日本人にとって、少なくとも自分にとっては物足りなさを感じる。私たちにとっては当たり前で、人によっては生ぬるいと感じるあの描写でアメリカの人々は涙を流すのだろうか。馬鹿馬鹿しいどころでは無い理由で京都を対象から外すシーンでクスッと笑うおじさんがいるのではないか?こんなどうしようもない誰も幸せにならないような想像をしてしまう自分自身にも嫌気が指すし、でもわからない。

そして最後のシーン、本当に身勝手で醜い感想だとは思うが、正直赦しを乞うているようにしか感じなかった。アカデミーを取ったのもそうなのではないかとさえ感じてしまう。

オッペンハイマー側がいくら関与していないといえどもBarbenhaimerのmemeがバズったこと、世界で戦争が起きていること、そんな中で開かれたオスカーの授賞式で起きた様々なこと、誰しもが核爆弾や日本について触れなかった事実、日本での公開が遅れたことなど様々な自分自身における外的な要因があることも事実である。正直映画単独ではこの映画の感想を考えられなかった。

でも自分自身間違っていないと思うのは、自分がどうこの映画を受け取ったかであって、この気持ちには嘘はない。このことは自分自身忘れてはいけないと思うし、こうやって文字に残そうと思った。

救いを求めるようにかったパンフレットの出来が素晴らしくて本当に良かった。僕と同じような理由でパンフレットをかった人も少しはいるのではないかと思う。

とりあえずもう一度見に行こうと思う、



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