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#04 鯉のぼりは泳がない

 さあ、ゴールデンウイークです!連休ですね!こどもの日も近いですね。
 子どもの頃、空に泳ぐ鯉のぼりを見上げたり、上げてもらったという思い出がある方も多いと思います。でも、私は鯉のぼりの思い出はありません。こどもの日は単に祝日でした。
 なぜって?「落ち武者の祟り(たたり)」があるからですよ。

 瀬戸の旧市街に古くからある家にはそういう言い伝えが残っているようです。
 こういった話には各家々でアレンジが加わっていたりするので、違う部分もありますがわが家に伝わるのは…「戦国時代。季節は端午の節句の頃。節句の準備をしていたところ助けを求めてきた落武者がいたが、助けることなく討ちとった。その後は落武者の祟りか男の子が生まれても病気になったりということが続き、そこで落武者を手厚く葬った。そして、その後代々端午の節句のお祝いは行われなくなった」という話。実にざっくりですが、わが家に伝わる話です。

 本当のところはどうなのよ!ということになります。昔、うちの先祖が暮らしていた近くに古い墓地があり、そこには落武者の墓と「落武者の由来」という碑があります。その碑文によると‥‥

「この墓は守山城主 松平信貞の家臣を祀ったものである。
織田信長と弟信行が戦った稲生合戦[弘治2年(1556年)8月24日]で信行方についた松平信貞は敗れて瀬戸に落ちた 瀬戸追分(現在の十三塚)で13名が自害 1名をこの戦を後世に伝えるためと墓守として品野の方に逃がした しかし宮脇にて村人に刺され前田で討ち死にした
後に村人はこれを哀れみ 墓を建て供養する
落武者命日8月24日 泉霊苑 小澤武夫氏調べ」

(碑文より引用。日付などの数字のみ漢数字を算用数字に変えました)

 十三塚(とみづか)という地名は今も市内にありますし、そこに塚(墓)もあったという話も聞いたことがあるので、こういった史実があったんでしょう。端午の節句との結び付きはよくわかりませんが(そこはわが家のざっくり言い伝えのオリジナルかも)宮脇の村人にうちの祖先がいたようです。
 まあ、碑文のとおりの事情なら落ち武者が祟るのも十分理解出来ます。鯉のぼりは止めておきましょう。

 私の子どもの頃はちまきや柏餅もダメでした。今はそのくらいはいいんじゃないかなぁ、美味しいし…とここは緩和してます。ただ、鯉のぼりや飾り物は控えてます。このあたりはそれぞれの家で基準は違うようで、外から見えないように飾るのはセーフ、引っ越したからもう大丈夫、いやいや引っ越しても祟るよ、などいろいろ聞きます。

 子どもの頃は友だちの家の鯉のぼりがちょっとうらやましくもありましたが、落ち武者の祟りがある家と言うのもなかなか他ではないので、これもいいかと思っています(わが家は言い伝えは(基本的に)ちゃんと守っているので、落ち武者さんくれぐれも祟る必要はないですよ!)。
 瀬戸も最近は市外からの転入も増えて、だんだん落ち武者に祟られている家も(古くからの瀬戸の人ね)減ってきてるように思います。

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