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「かわいい」の現在地

一日だって「かわいい」を言わない日はないだろう。あらゆる「かわいい」にわたしは生かされている。飼っている猫、天使、アイドル、ネイティブフラワー、Instagramに投稿されるファッションブランドのルック...etcここでは書き納められないくらい「かわいい」が周りに溢れている。
これらには愛おしいも健やかもいい匂いも美しいも含んでいてまさに森羅万象だ。そのひとつひとつを大事にあつめていくと心奥に頑丈な砦が築かれてゆく。何人たりとも侵入不可、決して略奪も破壊もされない安寧のセーフスペースが完成する。「かわいい」とは絶対的な不可侵領域であるからこそ強大で他を凌駕する熾烈なパワーが宿る、畏怖するほどに。
あとかわいいは限りなく自分軸であると思う。能動的に自らの意思で「かわいい」を遂行する。周囲の要望に応えたいからという契機もあるだろうし、周囲から馬鹿にされても自分がやりたくてやることだってある。自ら望んでいれば、常に何人にも「かわいい」の門は入り口は開かれている。主体的で最強、それがわたしの考えるかわいいだ。


この前、俳優のマ・ドンソクさんのInstagramを見ていて「強面で屈強なのにキティのスマホケースで自撮りしていてかわいい」と反射的に思った。あと相撲部屋のvlogを見ているときにも同じような文脈で「猛々しいのに子供にからまれていてかわいい」とも思った。でもどちらの"かわいい"も褒めているようには聞こえなくてなんだか釈然としなかった。
〇〇なのに印象と違くて"かわいい"など俗にいうギャップ萌えや見慣れない事象に使うとき相手への"レッテル貼り"になる可能性がある。褒めていたとしても、単に一方的に自分の常識を押しつけているだけで相手の実態を無視した言動になる。自分の思い込みの上で成り立つかわいいには対象への敬意が欠けてみえるし、その基準も他律的で確固たるものではない。
神業的な技術を持つひと、物理的に強そうなひとなど自分より凌駕する力があると認めたとき、神格化に近いものを抱き本能で恐れや不穏を察知する。それを払拭するために自分が理解できる形="かわいい"に粗い解像度のまま相手を簡略化して安心しようとするのではないだろうか。つまり自分の経験や知識の狭い範囲でやりくりしてしまうため自己完結してしまい相手をシャットアウトしてしまうということだ。
自分の価値観で考えることをやめたほうがいいというわけではない。ただ自分の枠を超えた世界を(いわば他者)認識しているかどうかによって物事の見え方が変わってくるという話だ。(そういえば尊敬しているひとが、勉強する時は自分の価値観を真っ新にして臨むといいと言っていたのを思い出した。今になってその言葉の真理がわかる気がする。)

"〇〇なのに"の〇〇こそ本来の「かわいい」なのかもしれない。「強面で屈強だからかわいい」「猛々しいからかわいい」自分の枠という制限を超えていく「かわいい」こそ〇〇を表現するのにふさわしい。かわいいは限定されないからどこまでもかわいいは開いているのだ。

とここまで文章を書いてきたが、あくまでも思考の足跡を記録しているだけで言葉とがめをしたいわけじゃない。ひとを傷つけたくないと思っているひとが自分には使い分ける配慮ができないからと「かわいい」を遠ざけてしまうようなことだけは避けたい。かわいいの本来の意味がどうとか複雑なことを考えずかわいいを躊躇わないでください。わたしもかわいいを躊躇わず、光をあつめていきます。

ハンバーガーを頬張るマ・ドンソクさん


六歳から中学の途中までバレエを習っていた。練習をめげずに続けてこれたのはかわいい衣装を着たかったからだ。幼少期ドレスに憧れて掛け布団を腰に巻きつけてはひとりで空想の世界に入り浸っていた。今から5分わたしの時間ねと母親に宣言して掛け布団ドレスを引きずり梯子ベッドを城に見立てて一国の女王になりきって遊んだ。わたしはバレエの衣装の膝上が見えるチュチュよりも足首くらいまで布があるロマンティックチュチュが好きだったがそれが幼い頃遊んだドレスみたいだったからだ。
発表会前、バレエ教室には衣装が入ったダンボール箱が山積みに置かれていく。みんな いつもより浮き足立っていて、レッスンが始まる前に先生にせがんで先に箱を開けてもらった。無骨なダンボール箱を開けると、そこには宝石のようなチュチュがひしめき合っていてキラキラと熾烈に輝いていた。この地球上にはこのような絢爛豪華な世界があるのかと衝撃を受けた。それがわたしの初めての「かわいい」との出会いだった。
チュチュは飾って眺めているのも素晴らしかったが、着て踊ることでさらに輝きを増した。けれど小学生の頃のわたしはメゾピアノみたいな服が全く似合わなくて「とても太っているわけではないけどガタイがいい」体格でひとよりやや身体が大きいという自覚があった。だからチュチュが体格に合わず、自分一人だけホックが締まらなかったらと不安に思った。身体へのコンプレックスを抱かされたのは、バレエを習ってからのことだった。でもいざチュチュを前にするとどうしたってかわいくて力が湧いてきて、自分に似合わなかったとしてもチュチュを着て踊っているわたしはかわいくて最強でその瞬間は自分が自分を生きていることの証明であったと記憶している。

ロマンティックチュチュのようなセルリア


かわいいと思うものが生きた時間に比例して増えていったが、わたしの「かわいい」の原点にあるのはチュチュの記憶だ。煌びやかで健やかで美しく主体的である。
その後ウェディングドレスやオートクチュールに惹かれたり、キラキラ輝く鉱物にハマって「鉱物が好物」という謎合宿にまで参加した。
たまに女の子らしい趣味だねと言ってくるひともいたが、単にキラキラしてかわいいものが好きなだけだと言い返してきた。こんなふうに"レッテル張り"はどんな場面でも行われてきたし"かわいい"に限った話ではない。悪意がなければ何を言ってもいいわけではないが、価値観が一様に統一された世界になることのほうが怖いと思う。

*2024/04/22 追記
女性に押し付けられてきた規範の内で"女の子らしい"と言われることの方がよっぽど価値観(ジェンダー規範、異性愛規範)が一様に統一された世界であり、意図がずれていると感じ訂正と補足。
抑圧的な規範に忠実でありたい、差別的であっても変わりたくないという意志を尊重する気は一切ない。その都度抑圧的な規範や差別的な偏見は濾過していく必要があるだろう。ただ全人類が統一された価値観を持っていたら(みんな自分と同じだったら)狭っ苦しくて厭だ。構造的な差別や抑圧に抵抗することと、コミュニケーションは別の話だと思う。


年代や社会の属性、育った環境によって価値観は皆違うからどう衝突を避けるかよりも、衝突した時にどう対応するか考えた方が健やかだ。
大きく自分の枠を飛び越えて、他者との化学反応を楽しんでどんどんかわいいを使ってください。革小物のように使えば使うほど自分の手に馴染んでここぞという場面で、かわいいの真髄を寸分の狂いなく発揮することができるだろう。


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