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声をあげる。ーだれに、どうして、どうやって

拝啓 わたし

ぽろぽろと、SNSのニュースフィードでアメリカで起こっている反人種差別デモのことが触れられている。これがきっと人によっては、「連日ニュースフィードを埋め尽くします」とか「まったく出てきません」とかになるのかもしれない。

以下、今わたしが考えていることの、備忘録です。


1.だれに、声をあげるの

アイルランドに留学していたときに、初めて「人種差別」の片鱗を見た気がするけれど、あれが本当に「差別」の片鱗だったのか、未だによくわからないでいる。

とある夜、友人とクラブに出かけたけどなんだか馴染めなくて、一人とぼとぼと夜道を歩き始めたら、突然卵を投げつけられた。

卵は走り去る車から飛んできた。相手の顔は見えなくて、車の中からは数人の男女の笑い声が聞こえた。幸い命中しなくて、近くにある車に当たってべしゃりと砕け落ちた卵。

怖かったし、かなしかった。けど心の表面はそのショックを受け付けなくて、「うわあ、卵がもったいないな」と思ったのを覚えている。そういう被害が何度かアジア人の友人の間で囁かれていた。

あの時卵を投げた人と対話する術はないけど、アジア人だからやったのかな。それともなんか人生にむしゃくしゃしてたんかな。ただ楽しかったんかな。その全部かな。

「白人警官が、黒人男性を殺害した」というのと、
「デレク・ショーヴィンさんが、ジョージ・フロイドさんを殺害した」というのと。

ふたつの文章を並べたときに、湧いてくるものはなんだろう。
「白人が黒人を」という構図に単純化するのは怖い思ってしまう。もちろんそれは無視できない重要な要素で、これまでその関係性の中で苦しんできた人たちが大勢いて、だからこそデモや暴動が大きくなっているんだろう。きっと、対岸の火事的な空気のある日本で聞いてるから余計、「すべての白人がこうで、すべての黒人がこう」みたいに聞こえるのが怖いんだと思う。あと「白人」「黒人」もそうだけど、平和的なものも暴動も含めて「デモは」とくくる発言も怖い。

発端となったジョージ・フロイドさんの事件自体がどういう作用で起こったのか。この暴動やこの間起こっている暴力はどういう作用で起こっているのか。少なくとも後者には、コロナで抑圧された中で生まれた色んな負の感情の連鎖とか、広がる貧富の差とか、人種差別以外の要素や感情も関わっているはず。

大きな主語に注目して、構造的な暴力をなくそうとするのは、もちろん大切なこと。
でも関わっている小さな一人一人は、何が大切で、何がつらくて、何に怒りを感じて、その人自身の生活の何を変えたくて、暴力が生まれるんだろう。「差別はダメだ」って言葉より、今はそれが聞きたい。

報道を見ていたらどうしたって耳に入る「大きな主語」の向こうの、「小さなひとりひとり」について考えたい。どっちも大切だからこそ、聞こえづらい方に耳を傾けたい。

そして主語がひとりひとりになった時、初めて自分は断罪する側じゃなくて、問題の一部だと気づく。わたしの中にも、暴力の動機があるし、時としてわたしの行動にも、暴力性がある。まだ向き合うのが恐ろしくて、できていないこともたくさんある。

ーわたしは”だれに”、声をあげるの。


2.どうして、声を上げるの

「声をあげるべきだ」という言葉が好きじゃない。というか”べき”という表現が好きじゃない。
今年のこれまでを振り返るだけでも、「なんか反応しなきゃいけない感じ」がたくさんあった。オーストラリアの森林火災や、コロナへの反応、有名人がが逮捕されたり、亡くなったり、検事長の定年延長が問題になって、タレントへの誹謗中傷が話題になって、(ここまでのピックアップの仕方自体に偏りもあると思うけど)、そして今はこのニュースが話題に上る。

声をあげてる人たちを否定したいんじゃない。全然そうじゃない。
これは、わたしとわたしの対話の問題だ。

「反応しなきゃいけない感じ」に乗じるのは、やめようと思う。
これはいつもそう。仕事も友人関係でも恋愛でもそう。
「〇〇すべき」>>「〇〇したい」の状態で何かを発信したり決断したりすると、出てくるものがちょっと歪む。もしくは表面的で薄っぺらくて、自己嫌悪に陥るものになったりする。メンドクサイわたし自身の癖の問題だ。

自分なりに自分と対話して、何か見つけた気づきがあって、それを”発すべき”じゃなく”発したい”と思ったら、伝えたい相手に伝えたらいい。

なんなら、誰にも伝えなくてもいい。
でも、自分との対話はやめないでほしいし、自分との対話は、できるだけ記録してほしい。そんなんじゃ自己満足だと第三者的自分が囁いても、ぜひやってほしい。

何かを外に発すると、必ず小さく大きく誰かを傷つけることになる。でもそれが怖くて言葉にすることまでやめてしまうと、わたしは感じることも考えることも薄っぺらいままになってしまう。うんうん、わたしもわたしなりに、考えてるよって。受け流しちゃう。それじゃ理不尽な現実に加担するばかりだ。考えたことすら喉元過ぎれば忘れてしまう。

「声をあげる」の前段階があると思う。ゼロかヒャクじゃない。まずは自分の声を聞いてほしい。そしたら疑問が生まれる。疑問に答えるために調べてほしい。それを繰り返して、どう考えたか、何を感じたかを改めて自分の声を聞いてほしい。その声を聞いた上で、「発するべき」じゃなくて「発したい」と思ったら、伝えたい相手に、伝えてほしい。

ーわたしは”どうして”、声をあげるの。


3.どうやって、声をあげるの

ジョージ・フロイドさんの弟さんのスピーチを読んで、なんて冷静で、平和的な人なんだろうと思った。そのあとで動画を見て、声色を聞いて、思い直した。文章ではわからなかった、すごい怒りと悔しさが聞こえた。

「EDUCATE YOURSELF!」という彼の声が耳に残った。
「自分自身を、教育しろ。そして選挙に行け。すべての選挙に。」って。

陳腐な「選挙にいこう」だとか、逆に「選挙じゃ変えられない」だとか、もう聞き飽きた言葉がたくさんあるけど、でも少なくとも、選挙には行こうね、わたし。その選挙の一票を選ぶために、本当に「自分自身を教育」できているか。フロイドさんの言葉が刺さったこの感じを忘れないでおこう。

ーわたしは”どうやって”、声をあげるの。

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ちいさな主語に耳を傾けること。
発信すべきだからじゃなく、発信したいと思えた考えを伝えること。
選挙に行くこと。その一票を選ぶ自分自身を日々育むこと。

今時点での問いへの答えというか、わたしなりの対話の記録です。

今、自分に伝えたいこととして書きました。
長文、読んでくださってありがとうございました。

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