【読本メモ】『新!働く理由』を読んで

掲題の本を読んだのでメモ。

生きる、生き方といっても様々だ。
自分の考え方、体感、心地いいと感じるものにどれだけ素直に動けるか。
そうして豊かな体験を重ねてきた人、自分にできるだけ嘘をつかずに逃げずに向き合ってきた人、そんな人になりたい。
そんな生き方、人生を全うした終わりには、いい死に方が待っているはず。

好きなことを仕事にするべき。
でもその「好き」は何が好きなのか。
消費することか生産することか?後者なら仕事にできるかも。

これを仕事にすると決めて周辺領域を切り捨てるのはいかがなものか。
まだ活躍の余地が残っている、好きに変えていける領域が隣にあるかもしれない。

「好きな仕事、就きたい仕事は名詞でなく動詞で考える」というのは、いい考えだと思った。
自分はどんな言動をする仕事が好きだろうか。
チームで同じ方向を向いて頑張ることは好きだった。
小中学校の部活動や大学でのプロジェクト型学習など。
でも、今も好きなのだろうか。
というか、それとは真逆の一人でコツコツと取り組む、周りから邪魔されない自分の時間も好きになってきたと思う。
好きなことが移り変わってきているのか、それとも両方とも存在するのか。
チームで同じ方向を向いて頑張ること、それの当事者であることは本当に好きなのか。
高校野球観戦や都市対抗野球観戦、高校サッカー選手権観戦が好きなのは、それら頑張りをコンテンツとして消費することが好きなだけなのかも。
でも大学でのプロジェクト学習はリーダーシップを発揮してチームをぐいぐい引っ張っていくこと、チームの成果物が評価されることが気持ちよかったしアドレナリンが出てた感じだ。
一人で珈琲を淹れることは好き。これは生産者的な好きだ。
ただ、生産者的といっても、市場の需給を考えるというより、自身が突き詰めたアウトプット(コーヒー)に自身が納得した価格を付けて売る。分かる人だけが買ってくれればいい、という感じだ。

違和感や感情の起伏、ファーストインプレッションは貴重。
例えば、転職活動。内定時、現職退職時、新しい会社に入社して感じたこと思ったこと、違和感それらは書き留めたい。
その思いはどんどん古くなって脳が勝手にそれっぽく補完し始めて、鮮度が落ちると一般論しか残っていないことも多々ある。

取り合えず動く。
頭の中でぐるぐる思考をめぐらせるよりも外に出て人に話す、人から聞く、体験をアップデートする。
結局自分のちっぽけな脳に閉じこもっていても限界はすぐに訪れてしまう。

優秀な奴が多い職場かどうか、は重要だとあった。
確かに自分より野球が上手な人に囲まれていた方がより上達意欲が持てる。
ただ、そこで思った。私はサラリーマンとして労働者として優秀になりたいのだろうか。
たぶんそうではない。私は社会人として立派にはなりたいし、納得のいく人生を送りたい。
ただ、それはサラリーマンではないと思ってしまっているのだ。サラリーマンよりはフリーランスかな。起業家でもなく。

全体的に働くことを肯定している構成だ。
それはタイトル的に当然だし、働くことの背中を押してもらいたい人が読むべき本。
この本で引用されているシゴト論は正しいのか。
それは人それぞれの解釈による。
今はFIREという生き方もあるし、働くことを否定しているような本も読んでみたいと思った。
FIREは国、世の中的には勿体ないことであるが、一個人としてはそれが合理的な選択になってしまっていることが問題だと思う。
稼いでも税金で国に持っていかれる。その税金は若者よりも高齢者福祉に割かれる。
高齢者福祉の他にも生活保護など社会主義的な政策が多い日本では、むしろ働かずにそっちにまわった方が楽なのではないかとか、稼ぎはそこそこ配当金からもらって、税金額もそこそこに、出費もそこそこにするのが自由な時間を確保できて好ましい、好コスパのではないか、とかそんな考えが出てくることが必然ともいえる状況になってしまっているのではないか。
要するに、令和の時代の労働者は働くことに希望を見いだせていないのである。

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