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人間は神の分身ってホント?私たちの経験は神のコレクション?  ~神と人間

大きな松明(たいまつ)から
火を点しついでいくように
最高神から分けられた
それが私たちそれぞれの魂である
最高神とは
この宇宙を治める「秩序」である
 
最高神の神性を受け継いで
分け魂(わけみたま)の私たちは
それぞれに神性を宿している

私たちは神の分身だ
持てる神性に
まだ目覚めていないとしても

では なぜ
神は分魂を作ったのだろうか
神は肉体を持たない全き存在であり 
比べる対象を持たない
 
多い少ない 深い浅い 明るい暗い 
楽しい悲しい うれしい腹立たしい 
その度合いの目盛を
必要としないところに存在している

そのため味わいというものに乏しかった
 
神は味わいを欲した

肉体を持って生きる 
その「現場」を実感したかった 

失ったものごとへの執着に身もだえしたり
あまりの歓びに有頂天になったり
引き裂かれるような痛みを
感じてみたかった

いのちのちからを
活き活きと踊らせながら
いのちいっぱいに生きることを
謳いあげてみたかった

肉を衣服としてこの世に生まれた 
私たち分魂の役割は
積み重ねる経験と
身につける知恵と
熟していく感情を
十全に味わうことだ
根源の魂である大元の神※とともに   ※「神の階層図」参照

◆根源の魂(=大元の神)へ吸収されるとき

私たちの本性は
肉体でも感情でもなく
知識でも経験でもなく
素の魂である

人間として生涯を過ごすことによって
身につける経験、知識、感情は、
それこそ神が欲している味わい(=データ、記憶)だが、
魂の本来にとって実は
単なる「それ以外のもの」である 
根源の魂に還るにあたって、
個体に宿っていた魂は
まっさらな自我意識のない
魂に戻る必要がある
 
そのため
それらデータ(体験記憶、実感記憶)は分離されて
<神の経験ストック>に保管される

魂とデータ(記憶)が分離するときには
強い「恐怖」の感情が沸き起こる
 
その人自身というのは
データでなく
魂そのものなのだが、
記憶の集積こそが自分自身であるという
勘違いの自我意識を
まだ魂が持っている場合
それらを手放すことは、
”自分が自分でなくなる恐怖”を意味することになる
肉体を持った人間としての一生は
一度きりである

そう考えれば
記憶を手放す際の感情は
それがたとえ”勘違いの”恐怖であったとしても
同一魂にとって
次の一生に移行するまでに経験できる
一度きりの貴重な感情である
 
この貴重さは
あらゆる味わいの中でも
特に妙味と言えるだろう
そしてどんな深い恐怖の中に投げ込まれたとしても
素に戻った魂に
その感情は残されることなく
忘れ去られる

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