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◇特集「今こそ学びたい江戸時代の生き方」

*「人間は大自然の一部」の精神

江戸を正しく振り返れば
世界が江戸を目指す理由が分かる

原田伊織 写真4

原田伊織
作家。2005年『夏が逝く瞬間』で作家デビュー。
『明治維新という過ち』三部作など、著書多数。

何があっても平和であらねばならない
徳川の国家コンセプト

 明治維新は、とにかく徳川幕府を倒すことが目的でした。統幕勢力は、その後の社会の青写真を何ももっていなかったのです。明治維新という軍事クーデターから150年以上経った今、私たちは何も検証しないまま、史実とは異なることを学校教育で教えています。

 私たちは、明治以降を「近代」と呼んでいますが、それは江戸の遺産を食い潰すことによって成り立っていただけなのです。明治維新至上主義者である司馬遼太郎氏でさえ「江戸の遺産は昭和四十年代に尽きた」と語っています。

 つまり、日本の近代は何かと考えた時に、一つは、江戸の遺産を食いつぶしたこと、もう一つは、西欧の「工業化」の部分のみを捉えて「先進」だと考えた時代であったということです。

 精神面をソフト、科学技術をハードとして見ると、ハードの部分しか見てこなかったのが明治以降の近代゠明治近代です。

 ハードしか見て来なかった結果として、他の列強諸国と同じように対外膨張をはかり、10年に1回のペースで戦争をする軍国ニッポンになっていきました。

 徳川家康が慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命されます。そして、「大坂の陣」に勝利して元号を「元和(げんな)」と改めました。「元和」という言葉は、「平和」を意味します。これは戦国以来の長い戦乱にようやく終止符が打たれ、ここから平和な国家を作って行こうという宣言でもありました。歴史的には、これを「元和偃武(えんぶ)」と呼んでいます。

 そして、家康は「天道」という言葉を使いました。つまり、自分たちが世の中を統治する権限は、天から預かったものであり、もし、天道に反する治世をしたら、たちまち天によってその権限を取り上げられる、と考えました。この思想が幕末まで脈々と受け継がれていききます。中国の「易姓革命」思想と同じようにみえますが、これは徳川独特の統治思想です。

「パックス・トクガワーナ」という言葉がありますが、何が何でも世の中は平和であらねばならないというのが、徳川政権のコンセプトでした。これがあったから人類史上最長の平和な時代が実現したのです。

 そのコンセプトを支えた一つが、成熟していった武家の精神文化です。江戸期後半の武家の人口は、家族を含めても全人口の7~8%程度でした。その7~8%の精神文化が社会の重しとなって、社会の安定が図られていたのです。

 武家の精神文化の代名詞的な書物は、佐賀藩士の山本常朝(つねとも)が口述した『葉隠(はがくれ)』ですが、たびたび「武士道とは死すことと見つけたり」との一文だけが取り上げられますが、山本常朝はそんなつもりでは語っていません。これは、すべて口伝とされた武士の心得集であって、当然原本は存在せず、やたら「死」を強調したのは明治以降の創作です。

 武家の精神文化が脈々と受け継がれていったことがベースとなるのですが、私が「徳川近代」と呼ぶ幕末において、徳川幕府の旗本官僚たちは、ペリー来航時に非常に優れた能力を発揮します。

日本に誇りをもちたければ
江戸に学ぶべき

 第一回日米交渉の全権は、林大学頭復斎(だいがくのかみふくさい)でした。この時に、日米和親条約が締結されます。この交渉がどういうものだったか、日本のほとんどの学者は、ペリー側の記録のみを参考にして語ります。ペリーは当然、自分の不利になるようなことを自らの記録に書くはずがありません。それを元にして、後世の学者は、あの条約は不平等条約だったなどと言っているだけなのです。

 日本側にも正式な交渉記録が存在します。仮にその記録が100%正しくないとしても、日米交渉を検証するのであれば、なぜ双方の資料を使わないのでしょうか。これはおかしなことです。

 両方の資料を比べて言えることは、あの交渉は完全にペリーの敗北でした。日本人は今まで、列強を相手にした本格的な交渉などやったことがないのに、なぜ彼らにそれが出来たのか。それだけ当時の学問レベルが高く、精神文化が成熟していて、武家に「アイデンティティ」が確立していたからではないでしょうか。

 彼らは、アメリカへのコンプレックスなど全くもっていませんでしたから「我が国は、交易は必要がないからしていない。貴国が、我が国の国情に疎いのは理解する。もう少し勉強しなさい」と言い放ちます。一方で、外交交渉である以上、武家としての倫理観に基づき礼を尽くしました。その対応に接したペリーの交渉団に、平たく言うと「こ奴らは半端じゃない」と思わせました。

 第二回目の交渉は、日米修好通商条約を結んだ交渉でした。この日本側の交渉担当は、林大学頭の甥っ子にあたる、岩瀬忠震(ただなり)や、井上清直()という人物でした。この条約の条文は、アメリカ側の全権であった総領事ハリスが一方的に判を押せと迫ったわけではなく、ハリスと一緒に三人で苦労して作り上げたものです。

 彼らは、「徳川がたとえ滅んだとしても、国家は滅ばない」との国家観のもと、アメリカと対等に渡り合います。ハリスは当時のことを「岩瀬、井上という官僚(外交官)をもった日本は幸せである。私の用意した草稿は時に彼らによって真っ黒になってしまった」と語っています。徳川近代の武家官僚は、明治はもとより、昭和・平成の官僚よりも優秀だったと思います。

 この条約を結ぶことで、日本の国益はかなり増しました。後になって、この条約を不平等条約と言い出したのは、明治政府です。明治政府を樹立したメンバーは、天誅の名のもとに、ハリスの通訳ヒュースケンを暗殺したり、生麦事件を引き起こして薩英戦争に発展させたりしました。

 それらの後始末に追われたのは全て江戸幕府でした。多額の賠償金を払うと共に、輸入品の関税も下げざるを得ませんでした。つまり、明治維新を遂げた薩摩、長州の志士と自称する過激分子によるテロ活動が、当初、日米修好通商条約で定めた関税率を引き下げ、不平等な条約にさせたのです。

 自分たちで不平等条約にしておきながら、江戸幕府は不平等条約を結んだと非難していますが、これは悪質な歴史の改変です。

 私は、江戸幕府が結んだ条約は立派な条約だったと思います。この150年間、日米交渉は色んな局面で長い期間続いていますが、双方が対等に渡り合ったのは、この最初の2回だけです。

 現代は、やたらと反中国や反韓国を叫ぶネトウヨなどが増えていますが、本当に日本に誇りをもちたければ、江戸を勉強しなさいと指摘しておきたいところです。

世界の学者がこぞって
称賛する江戸の文化

 当時、スイス、イギリス、ベルギー、プロシア(ドイツ)など色んな国の外交団や民間人が来日して、膨大な記録を残していますが、それらに全て共通していることは、幕府治世が安定していることへの驚きと、何と美しい国だろうという感嘆でした。

 国土は美しく、清潔で、「庶民の顔を見れば(この国が如何に幸福であるかが)分かる」や「世界にこれほど幸せな民はいるだろうか」との記述がたくさんあります。 

 特に評価されたのは、森林の保護と、節約の精神でした。持続可能性をもった社会の仕組みを確立させたのは、江戸時代以外では、世界史に存在しません。これに関しては、世界中の学者が等しく評価しています。 森林保護政策に関しては、アズビー・ブラウンさんが克明に調査して、『江戸に学ぶエコ生活術』という本にまとめてくれています。ここで、はっきり江戸の社会を「Sustainable(持続再生的である)」と言い切っています。

 江戸はほとんど国外に対して閉鎖体制であった中で、ほぼ自給自足で、どんどん経済も発展させていきました。八代将軍吉宗の時に、初めて今で言う国勢調査が始まりました。それによると、当時の人口は、3,000万人余りでした。

 それから150年ほど経ち、幕末を迎えた頃の人口は、約3,200万人で、ほんの僅かしか増えていません。これは、循環システムを生んだ価値観の中で緩やかな発展を実現させたことを示します。その中には、姥捨てなどの悲劇の文化も含まれますが、海外の学者たちには、その習俗さえも、サスティナブルな社会システムと映るようです。社会が循環し、安定して行く中で、自然と文化や科学技術もどんどん成熟していきました。

 数学などは当時の世界ではトップクラスでした。だからこそ、咸臨丸は日本の船として初めて太平洋を往復できたのです。航路計算を担当したのは、小野友五郎という天文方に登用された技術官僚ですが、彼はわずか6万石の笠間藩(今の茨城県)の、藩士たちの末席中の末席に置かれていた人物でした。当時の人材登用策は、そんな全国各地の隅々まで目が配られていたのです。

自然と共生するとの考えは
西洋的な傲慢な考えである

 江戸の町は、長屋は木と紙でできていて、家財道具は布団も食器もレンタルがほとんどです。これはいつ火事が起きても、まず命を大事にして逃げられるようにするためです。「宵越しの金は持たない」と威張っていますが、あれは実際には持てないのと、どうせ火事が起きて燃えてしまうから持っていたって意味がないとの考えに基づいています。

 最近、自然と共生するという言葉が、さも進歩的であるかのように語られますが、これは西洋的な考えです。江戸の人々は、「人間は自然の一部に過ぎない」と認識していました。だからこそ、死ぬことを「土に還る」と表現しました。共生とは、大自然と人間を対等な立場に置く傲慢な考えです。

 芸術的には、「借景」という景色を借りるという概念での建築仕様がありました。例えば、窓を開けると、東の山に月が登る景色がちょうど絵画のようにはまるように設計するのです。

 大自然様からちょっとだけ景色を借りるという発想は、自分たちが大自然の一部だという考えがなければ出てきません。

 これらの考えは、江戸の文化の至る所に散らばっています。しかし、悲しいかな、現代の日本人よりも海外の人たちの方がその価値に気付いています。だからこそ、「世界は江戸に向かっている」と私は申し上げているのです。
                       (取材・文 水島慎司)

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