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パワハラ上官ナポレオン④:ミュイロン
ミュイロンは、エジプト遠征には参加していません。彼は、アルコレで、ナポレオンを庇って亡くなりました。
ミュイロン
Jean-Baptiste Muiron
1774.1.10 - 1796.11.15
出会い
パリの徴税人の家に生まれます。トゥーロン攻防戦に砲兵大尉として参加し、そこでボナパルトと出会いました。
彼は、ボナパルトがバラスの副官を務めたヴァンデミエールの蜂起弾圧にも、砲兵将校として参加しています。例の、街中でブドウ弾をぶっ放し、王党派市民を殺戮した鎮圧です。
アルコレ
大佐に昇進したミュイロンは、イタリア遠征では、ボナパルトの副官となります。
アルコレで彼は、ボナパルトを庇って亡くなります。一説には、ボナパルトの前に身を投げ出し、自身の体で彼の体を覆ったといいます。
![ミュイロン](https://assets.st-note.com/img/1702968412693-wE2CPcvdIn.jpg)
![アルコレ橋のナポレオン](https://assets.st-note.com/img/1702969391434-uVmIPMpqNk.jpg)
そういえば、前回ご紹介した副官スルコウスキーも、アルコレでボナパルトを庇って重傷を負っていましたね。
一人の男への熱狂、というのは確かスタンダールの言葉だったと思いますが、独裁者が出て来る直前の、独特の怖さを感じます。
「ミュイロン」
このように、ミュイロン自身はエジプト遠征前に亡くなっており、遠征には従軍していません。
ただ、とある船の名が、「ミュイロン」号といいまして。とある船、即ち、ボナパルトが全てをクレベールに押っ付けて、軍法会議モノの戦場離脱を実行し、エジプトから帰国した際の船の名前です。
![ミュイロン号の模型](https://assets.st-note.com/img/1702971918688-K3HjepxWX3.jpg?width=800)
ボナパルトは、アッコ包囲戦を撤退しカイロに帰還してすぐ(1799.6.21)、ガントーム提督にフリゲート艦2隻を用意するよう命じています。うち1隻がミュイロン号、アルコレでボナパルトを庇って死んだ副官の名をつけた船でした。
その後、アブキール陸戦を経て、ボナパルト一行がカイロから祖国への出航地アレクサンドリアへ向けて出発したのが、8月18日です。
ボナパルトは随分早くから、こっそりと帰国の準備をしていたことになります。
帰国の際、ボナパルトの一行は、イギリスのキース提督の艦隊に目撃されています。しかし、ミュイロン号がベネチア製だったため、イギリス海軍はイタリア船籍だと誤解し、ボナパルト一行は無事、フレジュスの港に上陸できました。
ナポレオンの帰国の詳細はこちら
![ミュイロン号での帰国](https://assets.st-note.com/img/1702971818997-Rx29ZGEPbL.jpg?width=800)
以来、「ミュイロン」はナポレオンのラッキーネームとなったようです。
ワーテルローの戦いの後、ナポレオンはイギリス軍から逃れるために、「ミュイロン」の偽名を使おうとしたようです。結局は使わなかったようですが。
→ wiki
死んでからも 利用されてしまった可哀想な ボナパルトの信頼厚い副官のお話でした。
デュロック
この時代にボナパルトの副官を務め、非業の死を遂げた人に、デュロックもいます。
けれどデュロックの死は帝政期末のことであり、ナポレオンの側近として うまい汁を吸った 功成り名遂げた後のことです。
詳細はブログでご確認下さい。
→ デュロック
エジプト遠征帰還後のデュロックについては、チャットノベルでも触れています。なかなかエグいです。
→「三帝激突」幕間「束の間の平和③」
![デュロック](https://assets.st-note.com/img/1702972832043-VkcHLxByeA.jpg)
1772.10.25 - 1813.5.22
各話リンク
パワハラ上官ナポレオン④ミュイロン(本記事)
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